2月の厳しい月を迎えましたが、お元気ですか?
ある方から「まじめに生きているのになかなか努力が報われない。神がおられるならなぜこんな苦労をしないといけないのですか」と尋ねられました。確かに、この世には解らない事が何と多いことでしょう。知りたいのに、求めているのに、その意味が分からず苦しむことも多いわけです。だから神様がおられるのなら、そしてキリスト教の神様が愛である、と知れば、尚のこと 事を隠さず意味を優しく教えてくれるはずだと思ってしまいます。ところがです。その聖書に不思議な言葉が書かれています。
「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」(箴言25:2)
つまり、人にある事柄を隠しておられる、というのは「神の神らしいやり方」だというのです。どうしてでしょうか。
第一に 人間が向上するためではないでしょうか。
もし人間が全てを理解し、何事も解ってしまっているなら、知恵を追求するどころか、満足しきってしまい、成長発展もなくなるでしょう。
第二に 隠されているが故の安心もあるのです。
もし自分の人生に起こることが全て解ってしまうなら、どうでしょう…。重い病に倒れるのが未然に解ってしまうなら、これからの一歩を踏み出せないのではないでしょうか。良い事であっても未然に知らされたなら、浮き足だってしまうのではないでしょうか。またこんな事もあるでしょう。自分のことを他人が何と言っているのか、全てを知らされたなら、良い事ならいざ知らず、悪いことなら、人はそれこそノイローゼになるのではないでしょうか。やはり「事を隠して」もらっているのがいいのです。
第三に 人間の分をわきまえるためではないでしょうか。
よく自分の足らざる事を知る、とか、無知を知る、と言われますが、それは大切です。この真理を踏み外して、人間が一番偉い者であるとするとき、人は高慢になり、世界は争いに満ちた世界となります。聖書に依れば人間は神によって作られた存在です。神の恵で生かされている者です。ですから、聖書は「主をおそれることは知識のはじめである」(箴言1:7)と語ります。
牧師 中 西 正 夫

