「失敗という人生はない」
現代のように社会情勢が不安なせいか、多くの人が「いつか自分は失敗するのではないか」という不安を抱えておられます。事によれば自殺ということが頭に浮かんでしまうような深刻な場合もあると思います。
ところが作家の曾野綾子さんはその著『人は最期の日でさえやり直せる』の中でこう語っておられます。
「おもしろいことに、信仰を持つようになると、失敗した人生というものはなくなるのである。それは何をしても失敗しないということではない。ある人間の生き方が、常に神の存在と結ばれていれば、かりにいささかの、或いはかなり大きい挫折はあっても、どのような人生にも意味を見いだすことができる。…これはいかなる政治家、心理学者、劇作家にもなしえない逆転劇であり、解放である」
確かにそう言えると思われることが聖書の中にでてくる人物に見いだします。創世記に出てくるヨセフという人はそれまで父の愛を一心に受けてき17歳の時、兄達の妬みから半殺しに目に遭い、さらに見知らぬエジプトに奴隷として売られていきます。そこでも誤解と裏切りの連続で、挙げ句の果ては牢獄にぶち込まれてしまいます。何と不運な人生、そう思っても誰も否定しないでしょう。でもその不遇な日々は、後のヨセフが世に出て活躍する人生の伏線であったのです。彼はエジプト王が夜見た食糧危機の夢を解き明かしたことから牢獄から解放され、エジプトで無くてならない大臣として活躍し、世界を飢饉から救うことになるのです。そして各地から食料を求めて来る人々の中に、かつて自分を痛めつけた兄達がいたのです。兄達は目の前にいる敏腕をふるう大臣こそ弟ヨセフであることをやがて知るに至ります。そうすると兄達はいつか復讐されるのではないかと恐れるのですが、ヨセフは言うのです。
「神はあなたが方を救うために、あなた方より先に私を遣わしてくださったのです」(創世記45:5)「あなたがたは私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(同50:20)
この出来事は正に逆境も屈辱も不遇も、必要のない「失敗の人生」ではないということを教えてくれるのではないでしょうか。
牧師 中 西 正 夫