「見捨てない希望、見失わない同伴」

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能登半島地震という悲報から始まった2024年も一か月が過ぎました。死者238名、今なお1万4千人の方々が避難所で生活されています。できる限り支援の輪に加わりつつ、私自身にも日々の暮らしの限界があります。心を痛めながらも目を閉じ、日本全体で培ってきた社会・地方行政・国政に復旧・復興の業を委ね、「もし正義の神がおられるのであれば、支援者と被災者の心を励まし、必要を満たしてください」と信じて祈るしかありません。そうでもしないと、同胞の苦しみの叫びに私自身の心の境界線が崩壊して飲み込まれ、なすべき支援もできなくなってしまいます。

身近に発生する悲劇を前にして、被災者と支援者のみならず、やや距離を置いたところから物心の支援をする多くの名もなき人々の心にも苦しみがあることを認め、その重さを適切に評価する必要があります。否定したり、見過ごすのではなく、それを受け入れることは、悲劇を乗り越える回復への第一歩です。東北大震災を経験した知人の牧師が、様々な悲しみを受け止めてこのように言いました。「そこにある複雑で多様な痛みを単純化し、それらを理解しようとする努力を放棄して、神様がすべてを益としてくださるから大丈夫…と性急に語る…態度は、人間が地上で味わう痛みの現実をあまりにも過小評価する態度です。」

しかし、この悲しみが全てではありません。私たちの内には、それを超えて前進する力があります。この力の源は多くの場合、家族、友人、そして内なる信仰を分かち合う共同体の強さから生じます。この希望は、私たちが直面している挑戦を乗り越え、成長し、互いに支え合うことができるという確信です。先の牧師はこのようにも言っています。「人間がこの地上を生きる上で、痛みというものが不可避であり、ある意味においては当然であるということです。神によって良い世界として創造されたこの世界ですが、今や人間の罪によって堕落し、虚無に服し、滅びの束縛の中でうめいています。ゆえに、贖いが完成するその日までこの世には患難があり、自然災害も争いも絶えることがないということです。……もし、このような人間理解、特に神に対する人間の罪についての理解を欠いて、人間そのものを過大評価し、その痛みを過大評価するならば、福音がヒューマニズムに取って代わられることになりかねません。」

この困難な時期においても、イエス・キリストは私たちを見捨てず、同伴してくださり、前進し続けるようにと希望を指し示してくださいます。苦しみを乗り越えて共に成長する過程で、私たち一人ひとりを愛しておられる神に出会い、共に愛し合う人間関係の中に神の愛を見る。このために私たちは富田林の地でキリスト教会を運営し続けています。

私たちのなにげない日常生活に溜め込んでしまう苦しみを、イエス・キリストは過小評価せず同伴し、過大評価せず希望を示してくださいます。今日一日も、互いに励まし合って共に生きていきたいと思います。

牧師 西 原 智 彦