「祭りの後が寂しい秋」
金剛教会には小さな畑があります。この夏から秋にかけて、若者たちが育てたナスやピーマンが大豊作となりました。ピザのトッピングにしてパーティーを行い、教会に出入りされる皆様にお持ち帰りいただき、そして地域の子ども食堂で使っていただきました。
秋は実りと収穫の季節です。田畑が黄金色に染まり、果実が甘く熟すように、私たちの人生にも実りの時があります。これまでの努力が報われ、家族や友人との絆が深まり、何か大きなことを成し遂げる喜びを味わう。秋の豊かさは、人生の豊かさを映し出すようです。
しかし、同時に秋には「終わり」が漂います。日の出はすっかり遅くなり、頬を撫でる風はじょじょに涼しくなり、あっという間に日が傾く夕刻に紅葉の使命を終えた落ち葉が命の終わりを告げ始めます。豊かさと儚さ、成熟と終わりの切り離せない混じり合いが秋の持つ魅力であり、また人生の深遠さともいえます。
人は生まれ、そしていつか命が果てる時がきます。収穫を求めて植えたものを、時がくれば抜かなければなりません。泣き嘆く時もあれば笑い踊る時もあります。隣人に要求する時もあればあきらめる時もある。黙る時もあれば話す時もある。憎み戦う時もあれば、愛し平和を得る時もある。実りの時も、終わりの時も、すべてが定められた時として与えられている、と聖書は語ります。私たちの目から見れば、人生の豊かさは歓迎すべきもので、終わりは避けたいものです。しかし、神は両方の時を私たちに与えておられます。
実に、夜明け前の秋の霧が朝日の光に溶け込みながら静かに姿を消していくように、私たちの人生の実りは儚いものです。イエス・キリストの兄弟であったヤコブはこのように記しています。「あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間、現れてそれで消えてしまう霧です。」
それは少し寂しく、恐れを感じるかもしれませんが、ヤコブはそれゆえに明日のことに用心深くなりすぎて思い煩うことなく、大能の神に身を委ねて生きるよう勧めます。私たちの短い命の中に、神がご自身の愛と目的をたっぷり注いで実りを与えてくださっているのです。
種を蒔くことも、刈り入れることも、倉に納めることもしない儚い鳥の命を、天の父なる神が支え、慈しみ、養ってくださり、鳥たちは秋の収穫を楽しんでいます。私たちは神の御前でそれ以上に豊かな価値がある存在です。たとえ私たちの命が儚くても、神の眼差しは私たちをしっかりと見守り、その時々に必要な恵みを与えてくださいます。実り豊かな秋も、終わりを迎える秋も、神の愛の中で私たちの一部とされています。
皆さんにもそれぞれの人生の季節があることでしょう。豊かに実る時、辛いことや終わりを感じる時、そのすべての時が神の御手の中にあります。そしてそのすべての時に、神は私たちに目を向けてくださり、必要な助けと愛を注いでくださっています。秋の豊かさと終わりの中に、イエス・キリストが与えてくださった命の意味と、神の温かい眼差しを見いだせるならば、今年の秋はなんと特別な秋になることでしょう。
牧師 西 原 智 彦