春になると、いつも私の青春時代にあった出来事がよみがえってきます。
高校三年生の夏休み、私は友人のガールフレンドとの別れ話につきあうことになり、彼は結局辛い気持ちで別れたのですが、帰りに私をバイクで家まで送ってくれることになりました。夕方の県道が薄暗くなり、おまけに雨までが降り出して、交差点まで来たのですが、その交差点の中央に右折するために止まっていた車が、バイクを運転していた私の友人にはショックのためか、見えなかったのでしょう。そのままぶつかっていったのです。私はそれに気づいて必死に制止しましたが、時遅し。私たち二人はそのまま車に突進したのでした。それから気がついたのは病院に担ぎ込まれる最中でした。手術を終え病室の中で痛みで一睡もできない中、考えたことは「何と命は儚いのか。もしぶつかり方が悪ければ、あれで一巻の終わり…」そう思うと、果たして人は死んだらそれで終わりなのか、との疑問が内から突き上げてくるのでした。
ある日のこと私の家族の命日に家に来られたお坊さんに思い切って尋ねてみました。「仏教では死後に極楽や地獄を言いますが、あれは本当ですか」お坊さんは答えました。「あれは方便じゃ」と。つまりこの世で悪いことをしていれば後の世でも悪いことがあるぞ、という一種の脅し?方便だと言われるのです。
一種の解放感のようなものを感じたのですが、次の瞬間また疑問が出てくるのです。「それなら有りもしない死後の世界の供養のために、どうしてお経など上げるのだろう?」当時18才の私には何か嘘めいたものを感じ、非常に失望したのを憶えています。
しかしある日、かの友人が「教会に行きたい」と突然言い出したのです。そこでボディガードのような気持ちで私は同行しました。その実私は自分の問いに答えを求めていたのです。教会の先生の話はまったく忘れましたが、話の後に私のために祈ってもらったことが私にさらに教会に行って聖書の話を知りたいという気持ちにさせたのです。次の日曜日から私は教会に通い始めました。そしてそこでイエス・キリストが十字架に架かり、三日目に死から甦られたことを知りました。少なくともこれを事実として弟子達は殉教を覚悟で宣べ伝えたのだということに感動を覚えました。それから半年経って、私はキリストを個人的に罪と死からの救い主として受け入れたのです。それから私の人生に死への恐れが消されていったのです。
「わたしは甦りです。命です。わたしを信じる者は、たとい、死んでも生きるのです」(イエス・キリスト)
あなたも死に打ち勝った唯一のお方、キリストをお知りになりませんか?
牧師 中 西 正 夫