年別アーカイブ:2013年
2013年 礼拝メッセージ 2013年1月1日
2013年12月29日 主日礼拝
「シメオンとアンナの感謝」ルカ2章25-40節 説教 後藤伝道師
礼拝説教を聞く 。
|
ルカ2:25 40 「シメオンとアンナの感謝」 【序】年末年始になると、日本人はクリスマスを祝い(キリスト教)、除夜の鐘を鳴らし(仏教)、初詣に行く(神道)。時と場所によって宗教がクルクル変わるので、日本の宗教は”万華教”と言える(『もし世界が100人の村だったら』より)。私たちは教会で共に主を礼拝できることを感謝したい。 Ⅰ.すべて求める人には与えられる シメオンとアンナは、昔から預言されていた救い主の現れを待ち望んでいた。そして2人は救い主イエスと直接出会う機会に恵まれる。「そのとき」(25)、「ちょうどこのとき、彼女もそこにいて」(38)とあるように、神が彼らの願いに応え、救い主と出会う機会を備えて下さったのである。 【適用】エレミヤ29:13に、「あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう とある。シメオンとアンナが救い主に会うことができたのは、彼らがひたすら、それを求めたからだ。神はご自身を探し求める人に、等しくご自身を現わして下さる。今もそれは変わらない。 Ⅱ.神に感謝をささげよう 今年1年を振り返っていかがだろうか。「苦しいことが多く、とても感謝できない」という方がいたら、ぜひシメオンとアンナに目を留めてほしい。救い主を抱いたシメオンは「神は私のような老いた者を顧みて下さった」と神を賛美した。長年やもめとして生きてきたアンナも、「神に感謝をささげ」ている(38)。「神は未亡人の祈りにさえ、真実に応えて下さった。 →これが2人の信仰なのである。シメオンはまた、救い主について預言した。イエスが「死ぬために」生まれた方だと暗示している。 【適用】私たちの願いも神はご存知で、その祈りは神の前に覚えられている。現在、厳しい状況に置かれていたり、祈りがなかなか答えられないと感じるなら、シメオンとアンナを思い出してほしい。あなたの祈りは無駄にならない。神があなたを見過ごしにされることはない。また私たちはもっと感謝することができる。私たちが裁きを免れ、永遠に生きられるようにと「死ぬために」お生まれになったイエスを心からほめたたえよう!十字架の愛は、神に生涯をかけて感謝する動機となる。 Ⅲ.どのように感謝を表せばよいか シメオンは幼子イエスを腕に抱え、神を賛美した(28)。アンナは「…すべての人々に、この幼子のことを語った (38)。シメオンは感謝を言葉で言い表し、アンナは他の人にイエスを紹介したのだ。 【適用】私たちもアンナに倣い、神がどんなに良くして下さったかを、家族・親戚・友人に話すことができる。イエスもルカ8:38-39で、ご自分が癒された男性に、その恵みを分かち合うようにと命じておられる。 年末年始の機会をぜひ生かしてほしい。あなたを通して神の栄光が現されるように!
|
2013年12月22日 主日礼拝
「恐れることはない」ルカ2章8-11節
礼拝説教を聞く 賛美奉仕:聖歌隊「牧人羊を」を聞く。
|
ルカ2:8-11 「恐れることはない」 【序】牧師として色々な方のお話を聞く機会が多いが、時代の反映か「将来が不安である」という方も多い。2千年前、最初のクリスマスに羊飼いに語られた「恐れることはない」をぜひ聞いていただきたい。 Ⅰ.クリスマスは「恐れからの解放」を告げるメッセージである クリスマスの主人公達に悉く「恐れるな」と語られている。 ①マリヤの婚約者ヨセフに「恐れないで」(マタイ1:20) ②主イエスを胎に宿したマリヤに「怖がることはない」(ルカ1:30) ③そして、救い主誕生のニュースを聞いた羊飼いに「恐れることはない」(ルカ2:10) この事は、まさにクリスマスがキリスト誕生によって人間にもたらされた「恐れからの解放」を伝えるメッセージである事を示す! Ⅱ.なぜクリスマスは悉く「恐れるな」なのか 勿論羊飼いたちが天使を見たという超自然的な現象で恐れたからと言うのはあるが、それ以上である。哲学者キュルケゴールは「恐れこそ人間の実存である」と言った。つまり、人間は生きる限り常に根底に恐れと不安を抱えているのだ。人は試練や病、将来の不安、家庭的な不安、そして死の恐れで一生恐れに囲まれている。これらの恐れに対して、ある時は親が、友人が、お金がある程度、助けてくれるかも知れない。しかし限界があるのだ。人は最期まで助けになる友を持っていない。これが恐れの根元なのである。∴神は、人類に根元的な恐れからの解放を与えるためにイエスキリストを生まれさせて下さったのだ。 【証】米国で最も尊敬され大統領リンカーン…失敗挫折感に打ちのめされていた生涯だったが… 祖父はインディアンに殺され、最愛の母に死に別れ(9才)、事業に失敗、婚約者を失う(溺死26才)、鬱病(27才)、6度の選挙敗北。ただ絶望的な半生から立ち上がらせてくれたのは、最愛の母からいつも読む様に言われていたキリストの言葉聖であった。最後の大統領選挙で奇跡的当選!「聖書こそ神が人類に与えて下さった最も素晴らしい贈り物である。恵は世界の救い主キリストから皆与えられる」 Ⅲ.「恐れるな」は素晴らしい希望のメッセージである 神が人に「恐れるな」と語られる時、単に恐れを取り除くだけではない。聖書では、この言葉は常に恐れに囲まれている人間に今まで経験しなかった様な神の新しい計画やビジョンを示すときに語られる言葉なのである。 【例】「恐れるな」に続いて「救い主誕生の喜び」のメッセージが続く。又エジプト軍に紅海まで追いつめられたイスラエルの民に海を二つに割き救われた時(出エジプト14:13)神は「恐れるな。神の御業を見よ!」 ∴逆に言えば、人が経験しなかったような恐れに囲まれる時、それは恐れがあなたを打ちのめすためではなく、あなたが今まで経験しなかったような素晴らしい神のビジョンの体験に導くためでもあるのだ! 【証】三浦綾子さん…「絶望から希望へ」(トラクト) |
2013年12月15日 主日礼拝
「神、我らと共に在す」マタイⅠ章18-25節
|
マタイ1:18-25「神、我らと共に在す」 【序】先生「一番成長の早い生き物は何ですか?」生徒「それは魚だと思います」「えっ?」「だってこの間お父さんが釣り損なった魚は、話の度にどんどん大きくなっていくからです」…魚の話のように簡単に成長できればいいが、人間の成長は簡単には行かない。特に苦難に対する場合は尚更である。逃げたり、もがいたり。そういう私達にヨセフが経験した苦難に対する態度は非常に学ぶべき態度である。
Ⅰ.ヨセフが直面した苦悩と危機 マリヤと婚約中のヨセフにとって、考えも及ばない出来事が起こる→それは婚約者のマリヤがヨセフが与り知らないことで身重になったからである(18) これは到底理解できない苦悩であった。旧約聖書の教えが彼の頭をよぎるー 「婚約中の二人が他の異性と関係を持った場合は死刑…レイプされた時は、(身の潔白を示すため訴えて)相手方の男性のみ死刑」(申命記22:23-27参照) しかしマリヤからの訴えはない。ヨセフの将来は壊され、愛は裏切られ、社会的恥をかく。マリヤにしても他の男性ではない神の聖霊による命を婚約者にどう説明できよう。訴えられれば当時の律法では死刑もやむなし。苦悩と危機!こんな時ヨセフはどう考え行動したか。私達にも大きな指針になる。 Ⅱ.ヨセフの取った行動と神の御心 1.行動の前に思いめぐらす時を持つ 「思いめぐらす」(20)=神の前に静まって御言葉に聞き、祈る事を意味する。 裏切られた時や苦難の時は感情的になり、間違った言葉や態度に出易い。しかしヨセフは先ず、神の御心は何かを知るために「思いめぐらした」 これは早まった行動に出て、後で後悔する愚かさから守る道! 2.選択基準を愛に定めた 「彼女をさらし者にはしたくなかったので内密に去らせようとした」(19) これは、ヨセフがマリヤに裏切られたと訴えればマリヤは死刑になるが、マリヤを死刑台に突き出す事は忍び難く、秘かに婚約解消をしてマリヤ救出の道を選んだとの意味。ヨセフは自分の立場よりも相手を守る事を考える人! 「エロス愛は自分の為に相手を愛する愛。アガペ愛は相手の為に相手を愛する愛」(伊藤整) 3.神から意味を示された 「マリヤの胎に宿っているのは聖霊による…御自分の民をその罪から救って下さる」(20) 神はなぜ人の手によらない方法で救い主を遣わされたかを示される。 【適用】神から意味が示されるのは昔も今も「出来事の後」。信仰の養いの為。当初、出来事に苦悩し驚愕するが、後で意味が示される→ヨハネ13:7 4.将来の不安を神に委ねる(24) 将来の不安は、正しい結論をした後にも起こる。結論が間違っていた所為ではないのだ。だから心配するな。なぜなら「神我らと共にいます」(23)から! インマ(共に)ヌ(私達)エル(神)ここでは倒置法でインマ(共に)が強調!
|
2013年12月8日 主日礼拝
「なぜベツレヘムの馬小屋で」ルカ2章1-7節
| ルカ2:1-7 「なぜベツレヘムの馬小屋で?」
【序】ある人が「釈迦はお城で王子として生まれ身分が高いが、キリストは馬小屋誕生で身分が卑しい」と批判された。しかしその批判は当たらない。もしキリストの誕生の意義を知れば、深い慰めと励ましを得ることができる。それをお伝えしたい。 Ⅰ.アウグスト帝の勅令が出たから 「全世界の住民登録をせよという勅令が皇帝アウグストから出た」(1) (ローマ初代皇帝(BC29-AD14)―シーザーの養子。永く続いた戦争で国の経済を立て直す為に住民登録による税徴収政策)この勅令(1)は9ヶ月の身重になっていたマリヤには300㎞のでこぼこ道をロバにゆられて生まれ故郷ベツレヘムまでの危険な長旅。しかし皇帝命令で従わざるを得ない。しかし旅は守られベツレヘムに到着し、そこで無事出産!ここで分かったのはかねてよりキリストはベツレヘムでお生まれになるという預言が何とアウグストの住民登録命令という極めて政治的な命令によって実現することになった不思議さ! 【適用】あなたの人生にもあなたを動かす「アウグスト」がいるのではないか?抵抗できない運命のようなアウグスト。人生の予定を狂わす試練や病というアウグスト。つい不満が出るだろう。しかしあなたを支配するのは「アウグスト」ではない。アウグストでさえあなたを救いと恵に導く神の道具でしかないのだ。 Ⅱ.神の御子なのに正当な扱いを受けられなかったから 「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(7b) キリストは神の御子として正当な扱いを受けられなかった。生涯全体がそうであった。神の御子なのに只の人間と見なされ、否、不当にも偽メシヤと言われ、奴隷の値段(銀貨30枚)で売られ、罪無しなのに極悪人として十字架につけられた。 誰にも面子がある。傷つけられる事は屈辱。そういう扱いを受けてこられた方の気持ちを汲む事のできる救い主!【証】神学生時、ある教会の青年会に説教を頼まれた。クリスマス劇があり、意地悪な宿屋の主人の言葉に肩を落として立ち去るヨセフとマリヤに、知的障害の子が泣きながら叫んだ「ヨセフさん、マリヤさん、ボクの家に来て泊まってください! Ⅲ.暗くて汚れた馬小屋のように汚れと闇の中にいる私達を救うためである 「飼い葉桶に寝かせた」(7a) 馬小屋が暗くて汚れている様に、私達の世界も罪の闇が覆っている。50年の信仰生活を振り返る時、不幸にさせてきたものは開拓時代の貧しさではなかった。伝道の成果が上がらない失望でも、病でもなかった。最も不幸にさせたのは「罪」であった。栄光の務めにも喜びを抱かず不平と不満、感謝を忘れ、報いが少ないと嘆いている。その心の罪が自分を不幸にしてきた。良い事が出来ること自体が報いなのだ。あなたは?あなたの暗くて汚れに満ちた心と人生を救うためにキリストは馬小屋でお生まれになったのだ。どこにお迎えするか? 【証】『神への告発』(作者不詳)… |
2013年12月2日 主日礼拝
「人生を導く星」マタイ2章1-11節
礼拝説教を聞く
賛美奉仕:朗読の会を聞く。
| マタイ2:1-11 「人生を導く星」
【序】ラジオ番組である心理学者が言った「努力は報われると一般では言われるが、必ずしもそうではない。報われない事が多い。しかしその努力がグンと報われる確率が高くなるケースがある。それは、何かを信じて、誰かを信じて努力するなら、報われる確率が高くなる」…2千年前の「東方の博士達」も気の遠くなる様な2千㎞の旅の中で、「確かな信じるものに」導かれて目的を果たす事が出来た。東方の博士達にあった「確かな信じるもの」は何だったのか、メッセージしたい。 Ⅰ.人生を導く神の「星」を信じていた 東方の博士達は救い主に会うために2千㎞の旅をしてき。しかも砂漠地帯!どっちを剥いても砂ばかり。そんな中で神は星で導かれた。それと同じ様に、神はあなたの人生を正しい道を歩めるよう様々な星をもって導かれる。 【適用】あなたが教会に来たのはたまたまと思っているかもしれないが違う! ∵「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである。(ヨハネ15:16)とあるからだ。同じ様に今も様々な「星」をもって神は導かれる。ある人には家族を通し、友人を通し、イベントで、テレビの案内で、時には苦難や病や問題を通してかもしれない。(私の交通事故もまた…)∴苦難で必要以上に落ち込まないことだ。神に導くための「星」なのだから!(詩篇119:71) Ⅱ.確信をもたらす聖書を信じていた 東方の博士達はエルサレムまでは星に導かれて来たが、救い主誕生の場所がベツレヘムである事は「聖書」(5,6)から聞かねば分からなかった。今も神は様々な「星」を通して人生を導かれるが、確かな道や救いを得るには「聖書の言葉に聞く事」が大切なのだ。時に生来の思いを越えて驚くべき事を成し遂げる。 【証】神学生時、同室の友人が通っている教会に婦人宣教師がいた。その宣教師は住んでいた家が放火にあった。犯人が逮捕され、余罪もあり、3年の実刑で刑務所に収容された。宣教師はその犯人が不幸な生い立ちであるのを知り、また「汝の敵を愛せよ」に深く取り扱われて、毎週果物を差し入れ暖かい言葉をかけ続けた。犯人が出所後、最初に尋ねたのは宣教師のところだった。やがてクリスチャンになった。 愛は生来の「好き」の感情とは異なり、神の賜物である。それ故、神との交わりの中で神の言葉に養われてこそ与えられるものである。 Ⅲ.理想環境を求めるよりも目的を果たす事が第一であると信じていた 東方の博士達にとって求める「人類の救い主」が、まさか幼児さえ虐殺するヘロデ王の時代と場所という劣悪環境の中で見出すとは思わなかったのではないか。理想とは全く異なる。しかし東方の博士達は目的を投げ出さず果たした。そして博士達は身の安全とこの上ない喜び(10)という報いが与えられた。 【適用】あなたは求めるべき「答え」は理想の環境の中でなくてよいのだ。大切な事は、理想の環境を求めることではなく、目的を果たすことなのだ。たとえ劣悪環境の中でも、東方の博士達のように目的を果たすことだ。そうすると「この上ない喜び」があなたを満たすだろう! |
2013年11月24日 主日礼拝
「わたしはあなたの名を呼んだ」イザヤ43章1-4節
礼拝説教を聞く
賛美奉仕:251主イエスのみそばに(聖歌隊)を聞く。
| イザヤ43:1-4「わたしはあなたの名を呼んだ」
【序】あなたは自分が産まれた時の事を親に聞いた事があるだろうか?すると親は「あんたが産まれた時こうだった」と嬉しそうに語って、へその緒まで持ってきてくれる…。聞く側も素直に幸せな気分になる。その理由は存在そのものに価値を感じれるからだろう。しかし社会に出始めると、やれ成績だ、お金だ、能力だと競争社会に身を投じる。自分を磨くのはいいが、問題は身につけた物だけで価値が決められてしまう事だ。だから戦々恐々で安んじる事が出来ない。しかしここに、あなたがいつになっても存在そのものに愛と価値を置くお方がいる→ 「わたしはあなたの名を呼んだ」(1) が意味する祝福のメッセージを伝えたい。
Ⅰ.誰がそう言われるのか 「あなたを造りだした方、主はこう言われる」(1) 「主」=あなたのことをとても大切に思い、計画を持って命を想像して下さった神。 あなたは偶然に生まれたのでも、お間違いで生まれたのでもない。 【適用】求道者からよく聞く質問に「聖書は良い話だが、神は果たしておられるのか?」がある。私「あなたの ご両親にお会いした事もお話しした事もないが、おられる事を信じている、あなたが存在しているという事自体 が何よりの証拠である。同じ様に神も目に見えないが、神がおられるのはこの宇宙、そして人間という作品の中 に見られるのです。…耳小骨(音を感知する骨)は人間の細胞の中で唯一成長しない骨)…目の上の眉毛、目、 鼻、口…素晴らしいデザイナー!
Ⅱ.その神はなぜあなたの名を呼ばれるのか 1.あなたを知っているから呼んでいる 「知っている」とは、あなたの全てを知っているとの意味。どんな境遇でどんな悩 み悲しみがあるかも全てを知っている。しかもあなたが神を求める遙か前からあな たの事を知っている。 【例】神の子イエスに一度も会った事がないのに木に登って見ていた心虚しいザアカイにイエス は声を掛ける「ザアカイよ」と。やがてザアカイの人生は一変する! 2.あなたを本当に愛しているから呼んでいる 愛しているときは名前を愛を込めて呼べるが、仲違いすると、途端に名前が呼べ なくなる。【例】人類の最初から。アダムとエバの「あの女が…」 しかし神は私たちがどんなに弱く罪を犯したとしても名前を呼んで愛し回復させ て下さるのだ。「わたしの目にあなたは高価で尊い」(イザヤ43章4節) 【適用】神に愛されている実感が無いという方に→神の御子イエス様が十字架にかかって私達の罪の裁きを 受けて下さったという歴史の事実に神の愛を示されている。大切な事は実感よりも事実に目を留めるべきだ。 感情は後で付いてくるから。 3.あなたでなければ出来ない使命があるから呼んでいる 「ヤコブよ…イスラエルよ」同一人物であるがヤコブは神を知るまでの生来の自分、 野心家であり策略家。イスラエルは神によって変えられ用いられた自分。 【適用】時々質問を受ける事で「やはり問題は私の性格ですよね。性格って変わらないんですか」と聞く事 がある。私は「性格は神様が造られたので基本的に変わりませんね。でも性格は変わらないかも知れませんが 人生は変わりますよ」と。多くの方が神の愛に変えられて使命を持って生きるよう導か れるのだ。性格は変わらないかも知れないが人生は変わりうるのだ。 【結び】母と弟に死に別れ、父に捨てられ、孤児院で統合失調症になたサリバン先生でなければ三重苦のヘレン ケラーは導けなかったろう。弱さやハンディも又用いられる材料なのだ。
|
2013年11月17日 主日礼拝
「不遇時代の学習」創世記29:15-27
|
創世記29:15-27 「不遇時代の学習」 【序】ある人曰く「どんな俳句に付けてもピッタリの言葉がある。それは『それにつけても金の欲しさよ』だ」 例「古池や…○○」「痩せガエル…○○」?!クリスチャンにとっては何?→「それにつけても万事は益」ではないか。…父を騙し兄が受け取る遺産相続を兄に変装して奪い取ったヤコブは、母方の実家、叔父ラバンの家に身を寄せ、肩身の狭い思いの20年を過ごす。しかしその不遇と思われた20年で、「万事は益」とされる神の恵を学習する。今日私たちも学ぶ事のできる真理である。 Ⅰ.「人は蒔いたものを刈り取る」人生の真理を学んだ 叔父ラバンがヤコブに「親類だからといってただで仕事をすることも無かろう。報酬を上げよう。何がよいか?」と言われ「恋心を抱いたラケルを下さい」と願う。7年経って、ラケルと結婚できるとワクワクして夜を過ごし朝になって驚く。何と叔父が遣わしたのは姉のレアだった!叔父に文句を言うと「この地方では妹が先に嫁ぐ習慣はない」との事。騙されたのである!更にもう7年の労働。しかしこの事はかつて父を騙した苦い記憶を思い出させた筈。騙したことが今回は騙されたのである。 【適用】「悪に対して善で勝て、は不可能」と聞く。「悪に悪」「悪に我慢」「悪に善」の三種類の生き方を全部経験したが、心安らぎ、喜びさえ感じたのは「悪に善」だった。結局聖書に生きる事が祝福なのだ。 Ⅱ.心を整える時間の恵を学んだ ヤコブが家を出た当初は「兄に財産を渡されて堪るか!」の思いがあっただろうが、そんな人を出し抜く負けん気だけでは人間として祝福を受けない。ヤコブにとって20年間は本来の人間性を取り戻し、兄と和解する心を整えられる20年であった。神はヤコブを別の所に導き、心を整えて下さったという事だ。時間が経たねば解らない事がある、時間が経たねば正直になれない事もある。今の不遇時代に問題解決を焦るが、大切な事は不遇時代を嘆かず、日常の営みを淡々とする事だ。最も良い状態の心に整えられていく。→ヨハネ13:7 【証】S牧師夫妻が息子を亡くした…妻が夫に「今後、私は笑う事がないかも知れません」…20年後、同じく子供を亡くした婦人が尋ねて帰り際に言った「私も奥様の様にいつか笑える日が来ますよね」 Ⅲ.不遇時代にも幸せを与えられる神の恵を学んだ 叔父ラバンの家で肩身の狭い生活をしたヤコブだったが、そこで所帯も持ち12人の息子を与えられる。もし辛い生活だけだったら、耐えられない日々であっただろう。生まれた息子12人は後のイスラエル国家の礎となる12部族になり、その息子ユダの子孫から救い主が誕生する事を思えば、神は辛い中にも幸せを経験させて下さったのだ。どちらを見るかで幸せが決まる。辛い事だけを見るのをやめて、その中から恵みを数えようではないか! 【信仰詩】「困難の中で見栄を張ることをやめよ。悩みの中で人に頼ることをやめよ。苦しみの中で物に頼る依頼心を捨てよ。井戸の底からは昼間でも星が見えるように人生の苦難の中から神を見上げよ」→Ⅱコリント4:18 |
2013年11月10日 主日礼拝
「人生の一人旅」創世記28章10-22節
礼拝説教を聞く。
賛美奉仕:252「安けさは川のごとく」 を聴く。
|
創世記28:10-22「人生の一人旅」 13/11.10 【序】今日の主題は「人生の一人旅」だが、あなたには回りに家族や友人、仲間がいるだろう。しかし試練や病など不安や恐れが来る時、死ぬ時も一人。どこか人生一人旅という実感もあるのではないか。孤独感に苛まれる。ヤコブの旅も寂しく侘びしい旅。それもその筈。兄になりすまして相続財産を着服した逃走の旅だから。しかしその一人旅で、神との大きな出会いを経験し深い慰めを得る。今日にも適用される励ましの内容である。 Ⅰ.共におられる神の発見 ヤコブの旅は最愛の母の実家に行くとはいえ、兄の復讐を避けて命からがらの逃走の旅。野辺の石を枕に眠るのは、一層の侘びしさと寂しさが増し加わる。その時、夢で天の梯子を見る。その梯子を上り下りする主の語りかけを聞く(15,16)ヤコブは「主が居られるのに知らなかった」(16)と言うように、たった一人で旅をしていると思っていただろう。しかしそのヤコブと「共にあり と語る愛の神がおられるのを知った。 【適用】あなたが認めなくても神はあなたと共におられるのだ!そして孤独は、独りぼっちとか、内気だから、付き合い下手だから生じるのではない。人間そのものが皆孤独。最後まで頼りになる存在がいないという意味で皆孤独なのである。しかし神が共におられる! Ⅱ.恵深い神の発見 父を騙し兄を出し抜き、父の相続財産を奪うようなことをしてしまった罪深いヤコブ。しかしそんなヤコブに神は「あなたにこの地を与え、子孫は増え、あなたがどこに行くにも守り、あなたを捨てない」(14、15)何という想像を超えた恵の祝福。 【適用】この話を聞くと「これは甘やかし過ぎる!ヤコブを懲らしめてこそ当然!理不尽!」確かにそうだ。只はっきりしているのは、この神の取り扱いを聞いて腹が立つ人は自分が義人の側に回って聖書を読む人。これで喜ぶ人は自分が罪人の側に回って読む人。聖書は言う。「義人無し!」自分が神の前に罪人である事が分かれば、この扱いが申し訳なく有り難く身に余る光栄と感謝せずにはおれない! Ⅲ.失望を希望に変える神の発見 ヤコブにとってこの旅は良心の痛みを伴う傷心旅行でしかなかった。しかし、一夜を明かしたその場所を神は「あなたが横たわっているこの土地をあなたとあなたの子孫とに与える」(13)と言われる。つまり将来与えられる土地を見せるための旅!傷心旅行などではなく、受け継ぐ土地の下見旅行とされていたのだ! 【適用】私たちは過去の傷や失敗を引きずり易い。しかし聖書の福音は、過去に引っかかっていた暗い出来事の意味が神の恵によって希望に変わる。心のトラウマが変わる。人生が変わる。神は意味を変え、意識を変えられるのだ。あなたが見ている問題や人生はパッとしない現実かも知れない。しかし神はそれを変え、希望の世界を示して下さる!エレミヤ29:11。そう信じなさい! |
2013年11月3日 主日礼拝
「偽装工作」創世記27章18-29節
礼拝説教を聞く。
|
創世記27:18-29 「偽装工作」 Ⅰ.この偽装工作の根にあるものは何か Ⅱ.どのようにして妬み心を解決できるか Ⅲ.神に愛されている実感が無いという人に |
2013年10月27日 主日礼拝
「涙の谷を過ぎる時も」詩篇84篇5-7節
|
詩篇84:5―7「涙の谷を過ぎる時も13/10.27 【序】今日の主題は「涙の谷を過ぎる時も」だが、これは全ての人が通る谷ではないだろうか。男も女も、年輩の方も若い人も。…人間関係がこじれたり、長い病の谷を通らされたり、思いも寄らない突然の悲しみだったり、まじめに生きてきたのに人生の落とし穴に落ち込んだり。こういう時は、立ち上がれない思いになる。しかし立ち上がらなければならない。どうやって? 聖書の励ましの言葉に耳を傾けていただきたい。
Ⅰ.涙の谷を通る理由 涙の谷を歩んでいるとき、人は色々と間違った理由付けを聞かされる。 「親のあなたの教育が間違ったから」「悪い星の元に生まれたから」「過去の失敗の所為でそうなった」 しかし聖書はそう言わない。→「そこを泉の湧くところとします」 「そこを」=涙の谷そのもの。「そこを泉の湧くところとします」 つまり、あなたが涙の谷を通った或いは通っている理由は「泉の湧く生涯への招き」だったのだ。神の御心は、涙が癒されるだけではなく、その経験を通して、あなた自身と周りの人に泉が湧き上がる様な経験に導く事にある。
Ⅱ.(だから)三つのしてはいけない生き方 1.「涙の谷」をじっと見つめて過去から離れない生き方 悲しみ経験が大きいから、それを受容できない時がある。しかし前向きに生きる為に、どこかで現実を受容する事が必要である。 【例】長野県の湯治場「無くなったものを数えるな。有るものを憶えよ」 2.当たらぬ言い訳に終始する生き方 イソップに出てくる狐の様に、手の届かない葡萄を「あれは酸っぱい葡萄」と決めつけて、取る努力をしない生き方。しかし言い訳ばかりでは正しい自己反省も新しい力も得られない。 3.恨みで生きる生き方 この不幸をもたらしたのはあの人、環境、神様にある、と恨んで生きている。恨みからは何ものも良いものは生まれない。
Ⅲ.泉が湧く生涯の秘訣 「何と幸いなことでしょう。その力があなたにあり、その力があなた(神)にありその心がシオンへの大路にある人」(5) 「あなた」とは神ご自身。人間の作った偶像の神ではなく、あなたを造られた愛の神。悲しみも苦難も益に変えて下さる真の神。 「シオン」=エルサレム神殿があった丘。 ∴神を信じ神と共に歩む時、悲しみを越えて泉を湧かせる生涯が始まる。 【証】浅見和子姉が経験された突然の悲しみ、やがて救いという「泉」を、夫にも「泉」をもたらした証…
|
2013年10月20日 主日礼拝
「判断ミスの付け」創世記27章1-10節
|
創世記27:1-10「判断ミスの付け」 【序】「判断ミスの付け」は世の中でよく聞く(福島原発の情報開示の判断ミス、みずほ銀行の判断ミス)…二週間前のメッセージで、イサクという人は、今だったら石油を一つ掘り当てるほどの価値ある井戸を、いとも簡単に譲れる物欲のない優れた面について話したが、今日はそうではない部分の話しのところ。「おやおや?間違ってるゾ、早まってるゾ」と思う面がでてくる。その判断のミスに付けが回って来る。 Ⅰ.寿命に関する判断ミス 「視力が衰えてよく見えなくなったとき…いつ死ぬかわからない」(1,2) 「いつ死ぬか分からない」と長男のエサウに言い、家督相続をさせたいと考えて行動をするのだが、かなり早すぎた。その後43年も生きる!余りに早い家督相続。これが血気盛んな二人の息子の大きな争いになったことを思えば、もっと後に相続をすれば、二人の息子も分別が付き、穏やかな相続もできたかも知れないことを思えば、イサクの行動は早まったことである。 【適用】せいては事をし損じる」と諺にあるが、何でも先に先にと焦って行動して失敗する場合がある。早く備えねばならないことは「あなたの神に会う備えをせよ」(アモス4:12)である。 Ⅱ.神の御心に関する判断ミス イサクは長男エサウに家督相続させたいとして、行動にでたのであるが、神の恵を伝えるべき使命を継ぐ者となる霊的相続者は弟ヤコブであることが神の御心であった。この事は二人が生まれた時から示されていて、父イサクも知らないわけではなかった筈(25:23)。ではなぜそれを知りながらイサクはエサウに相続させたいと考えたか?理由はイサクが息子エサウの作る肉料理が好きであったというかなりお粗末な理由(27:4)。しかしこれは笑えない。○○したい、という願望が強すぎると、神の御心が判断しにくくなる。【証】私のケース… Ⅲ.問題の処理に関する判断ミス 父イサクは長男のエサウに家督相続をさせようとするが、母リベカは次男のヤコブに偽装工作までさせて家督相続させようとする。親同士がバラバラ! どうしてこんな大事なことで夫婦に亀裂が生じたのか?その伏線は既にあった→25:28!この問題の未処理がこれ程大きな付けとなって現れたのが今回の行動である。問題から逃げると問題に追いかけられるのである。 【適用】どの夫婦も同じ性格の人というのはいないだろう。大概感覚も考えも違うのではないか?誰にも恋愛感情が無くなる夫婦関係。それならどうすればいいのか?→伝道4:12 神を夫婦関係(家族)の間に置きなさい! |
2013年10月13日 主日礼拝
「あなたに関する神の祝福ビジョン」
創世記26:11~12
礼拝説教を聞く。
賛美奉仕:救い主はまっておられるを聴く。
|
ヨハネ9:1-3 「あなたに関する神の祝福ビジョン」 13/10.13 【序】人間は素晴らしい神の作品なのに、どうして自分はダメだとか、劣等感に陥ったりするのだろうか?なぜ喜びをもって生きていけないのだろうか?それは「あなたに関する神の祝福ビジョン」を聞かないで、あなたに関する間違った情報を聞き続けているからである。今日は「あなたに関する神の祝福ビジョン」という情報を聞いていただきたい。
Ⅰ.あなたに関する情報源が三つある 1.外からの情報 親からの情報、学校などの教育者からの情報、友人その他本やメディアからの情報。例:親「アンタ、こんな0点なんか取ってバカだねえ。そういえば前もそうだった、きっと今度もそうだよ」この種のメッセージ発信は過去現在未来の最悪の情報と言われる。これによって子供が新たな気持ちで生きていく力は得られない。ここからの情報は存在そのものに深い傷を付ける。 【例】「ドラエモン」の中でジャイアンのセリフ「のび太のくせに生意気だぞ」存在そのものの否定… 2.内からの情報 自分の過去の挫折、敗北経験などによって、自分はダメだと、自分が自分に向かって情報を発信する。この情報の問題は外に向かって心の扉を閉めているので、素晴らしい光が入ってこない事である。不安のある外の扉ではなく、素晴らしい扉があるのだ。上からの素晴らしい光が射し込む情報がある。 3.上からの情報―聖書からの情報。これはあなたを真に生かす「あなたに関するか者祝福ビジョン」である。そのメッセージがヨハネ9:1-3に集約する。
Ⅱ.上からの情報―あなたに関する神の祝福ビジョン 生まれつきの盲人に対する考え方―弟子達(2)因果応報思想。あなたの今の禍は先祖が悪い事をしたのでその報いとして今のような目に会っているとの思想。しかし神からの情報は全く違うのである→3節「神の業が現れるために」=神を信じて生きることの素晴らしさが、この障害を含めたあなたという存在の中に現れるとの意味。 1.あなたという存在は神に起源がある 「神の業」というように、あなたの存在と命は神に起源がある。人は環境の産物ではない。親の遺伝子さえ越えた存在。あなたは無視されてきたかも知れない。虐待されたり、甘やかされてきたかも知れない。しかし、神はあなたという存在は神に起源があるのだ→エペソ1:4 2.障害を含めてあなたの経験、全てが神の素晴らしい業の体験の機会 【実例】小学校の成績が全くダメでとうとう0点を取った子供にクリスチャンの父が「偉い!」と。二つの意味で。これ以上下がれない点を取った。勇気をもって言いに来た。…今彼は小学校の教師! 人間の言葉さえそうなのだ。ましてや神からの良いメッセージを聞き続ける時、あなたは障害にも病にも失敗にも罪をも益に変えて働く神の業を体験する! |
2013年10月6日 主日礼拝
「譲る人イサク」
創世記26:11~12
礼拝説教を聞く。
| 創世記26:12-22 「譲る人イサク」 13/10.6
【序】富田林の郊外に行くと畑では実ったお米が収穫を持っているが、金剛教会でも霊的な実りの秋。二人の方が洗礼を受けられる。皆で祝福したい。ところで今日から衣替えの10月だが、礼拝メッセージも衣替え。アブラハムを終え、その息子イサクに移る。アブラハムと比較しておとなしい人だが日本では親しみがあるのか、息子にこの名を漢字にして名付ける親もいる。(伊作、慰作、井作)井作は井戸掘りイサクを思わす名付け。今日の話は、その井戸にまつわる話し。 Ⅰ.イサク畑の豊作と井戸にまつわる事件 イサク畑の百倍の豊作は回りに妬みを抱かせた(12-14)(あなたも妬まれるとしたら何故かわかっただろう)それで父の時代に掘り当てた所有の井戸をふさがれて、立ち退き請求までされる(14-16)。井戸は今で言えば油田の一つを掘り当てるに等しいもの。しかし井戸をふさがれる事も立ち退き要求もアブラハムの時代に交わした契約違反で(21:29-32)、抗議ができるが、イサクは、文句も言わず身を引く。すると棄てた者ではない。又井戸を掘り当てる(19)しかし又奪い取られる(20)しかしまたまた井戸を掘り当てる。そして今までの争いが嘘のような「広いところに」導かれた(22) Ⅱ.イサクから学ぶ生き方の祝福
井戸は高価な物。だからこそ、それを獲得、保持する為に争いストレスを抱くのであるが、イサクは違った。井戸は必要なら神はまた与えて下さる信仰があった。そして争いは絶対しない。獲得で絶えざる争いに生きるより損をしても平和に生きることを選択した。これは父アブラハムにもあった良いDNA! 【例話】主人の為に野良犬に負ける仕草を見せた見上げた盲導犬ケビン(警備員)→ローマ12:18
上記の生き方をする者に一時的に人から損をすることもあるだろうが、最終的に神が守られる。→何度も井戸を見いだし、更に「広い所を与えて、増えるようにして下さった」彼は父の甥ロトとの土地選びの話を聞いていただろう。恩知らずで欲深いロトが最後にはどうなったか、また優先権を譲った父が最後にはどう祝福されたかを。→第一の事を求めたソロモンへの祝福
強欲なアビメレクの方から和解を申し出てきた。それと共にイサクの生き方に神の祝福を認める高い評価まで付いた!色んな問題があっても神を信頼して進むことだ。神が整えて下さる! →箴言16:7「主が人の行いを喜ぶとき、その敵とも和らがせる」 |
2013年9月29日 主日礼拝
「必ずそれができるから」民数記13章25節-33節
礼拝説教を聞く。
| 【序】先日、コウモリが我が家に入ってきた。何とか追い出したものの、これで3回目。それ以来、窓を開けるたびに「また入って来ないか」と心配になる。先が思いやられる。それくらいなら大したことないが、あなたは何を心配しているだろうか?経済的な問題、健康のこと、家庭のトラブル?今日はカレブという信仰者から学びたい。不安に悩む私たちに、神は何と語っておられるだろう?
Ⅰ.マイナス思考の弊害 約束の地を偵察に行った人々は、現地には巨人が住んでいると報告し、「無理です。入って行くことはできません」とモーセに告げる。彼らはイスラエルの民に悪く言いふらし、彼らを狼狽させる。 【適用】私たちも目に見える現象だけを見て動揺し、物事を否定的に捉えてしまう。もし、私たちが「無理だ。できない」と口にするなら、本当にその通りになってしまう。マイナス思考は益とならない。イスラエルの民と同様、本来得られたはずの祝福を逃してしまうだろう。 Ⅱ.カレブの信仰 偵察隊の1人として、同じ現場を見てきたカレブだが、彼らとは全然違う視点(心)を持っていた。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」(30) 【例】アフリカに行った2人の靴セールスマン カレブを奮い立たせたのは、彼が持っていた信仰だった。そのような信仰はどこから来るだろう? 【適用】 1.主の約束(御言葉)に目を留める 「イスラエルの民に、乳と蜜の流れる地を与える」という約束をカレブが信じていたように、私たちも主が語られた聖書の言葉を信じて掴むべきである。もしそうするなら、不要な心配から解放される。 2.主がなされた御業を思い出す 約束の地の前に来るまで、イスラエル人は主の御業を幾つも見、経験してきた。(マナ、紅海etc.)あなたは今まで、どのような主の恵み、御業、奇跡を経験してきただろうか?あなたの前に巨人のような問題が立ちはだかろうと、主はそれより遥かに大きく、力強い方である!イスラエル人をここまで導かれた主は、あなたをここで放置されるはずはない。十字架の御業を思い出しなさい。 Ⅲ.信仰がもたらすもの 大多数が反対する中、カレブのように「必ずできる!ぜひとも行こう」と主張するのは容易な事ではない。だが、何が正しいかという真理は、多数決によって決まるものではない。その後、カレブはどうなっただろうか。民数記14:24によると、彼はカナンの地に入り、彼の子孫も、その地を所有するようになった。後年の記録はヨシュア記14章を参照のこと。→素晴らしい勝利と祝福を得た! 【適用】信仰はあなたにも勝利と祝福をもたらす。あなたも「必ずそれができる」ようになるだろう。【証】引きこもりだった米田浩司さん |
2013年9月22日 主日礼拝
「あなたも救われる」使徒の働き16章25-34節
| 【序】金持ちと音楽家が歩いていた…全ての音が聞こえてくるのではない、関心に従って聞き分けている。あなたがどんな人生を生きるかは、あなたが何に関心を持っているかで決まってくる。豊かなそして確かな人生を生きるためには聖書に関心を持たれることをお勧めしたい。 今日の主題「…」驚くべき三つの救いがある。
Ⅰ.人生の不可解からの救い 人生には不可解な事が起こる。パウロにしてみれば、①「アジアで語ることが二度も禁じられ(16:6,7)、②「トロアスでの幻」(16:9)がヨーロッパ伝道への導きと受けとめて確信をもっての行動だったが、神に導かれた筈の地で迫害を受け(16:22)、刑務所入獄(23,24)!何という理不尽! 迫害を受けさせる為に神はここに導かれたのか?!こういう状況は人に苦悩を与える。しかし、刑務所の看守と家族が救われ、後にピリピ教会が出来、ヨーロッパ伝道の拠点となる(ピリピ1:5参照)この段階に来て意味が分かった! 【適用】まじめに生きているのに、神を信じて生きているのになぜこんな苦難にあうのか、と嘆く人よ、苦難の最中に結論を出すな。「鞭、刑務所」もー途中の事)神はあなたの最善の祝福の時を知っておられる。 「私のしている事は今はあなたにわからないが、後でわかる」(ヨハネ13:7) Ⅱ.束縛からの解放という救い 「真夜中頃…神に祈り賛美の歌を歌っていると、他の囚人達も聞き入って」(25) パウロ達の手足は鎖に束縛されていたが、他の囚人達も聞き入るほどの賛美だったことを思えば、パウロ達の心まで鎖に束縛されていない事が分かる。 【適用】現代、全ての人が何らかの束縛感がある。病、傷害、人間関係、問題…これさえなければと思うかも知れないが、それが無くなると又別の束縛に支配される。(川柳―石の上3年経てば別の石)要するに問題に支配されない心が必要なのだ。(乙武洋匡さんは障害に束縛感なし。お母さんも彼が生まれた時「まあ可愛い」と言った)しかし特別の人だけにしか束縛感からの解放はないのか?否、キリストの約束がある!→ヨハネ14:27 【証】1912年氷山にぶつかり難破したタイタニック号の中で… Ⅲ.あなたとあなたの家族の救い 「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われる」(31) あなたが立派な人でも、どの家にも破れ口があるものだ。病、障害、危機… その解決は神を信じる人生にある。最大の不安死への勝利―永遠の命、罪の赦し、苦難の中の平安、神から与えられる使命。それを体験するスタートがキリストを救い主と信じる信仰にある。 【証】小谷こずえさんの証(ペンライト賞)… |
2013年9月15日 主日礼拝
「あなたの故郷はどこですか」創世記23章1節-9節
| 【序】石川啄木「故郷の山に向かいて言う事なし。故郷の山は有りがたきかな」…。皆さんの故郷を聞けば、日本各地にまたがるだろうし外国の場合もあるだろう。しかし今日語りたいのは、もう一つ誰にもあるべき共通の故郷についてである。…アブラハムが妻サラの死で示した態度から私たちも大いに学ぶことがある。
Ⅰ.命の儚さと無情 「サラのところに来て」(2)とあるところからすると、アブラハムは仕事から戻ってきたところで妻の死を知った突然の死ではなかったか?死に目にも会えない人生の無常。しかも自分より10才若い妻の死→人は年の順番に死ぬとは限らない。それだけにショックも大きいものであった。覚えたい事は、人の死はいつ起こるか分からず儚いものである故に、死の備えをする必要がある! 【適用】イソップの話「蟻とキリギリス」があるが、日本人はアリだとよく言われる。働き者!しかしキリギリスよりも、もっと怠け者のところがある。それは死、永遠の備えをしないという事である。 死は全ての終わりではないのである。死後に誰にも訪れる死後の裁きがある。 ∴「神に会う備えをせよ」(アモス4:12) Ⅱ.悲しみの乗り越え方 1.自然の感情を表す アブラハムはサラのところに来てサラのために「嘆き、泣いた」(2) 悲しみの表現が二度も強調されている様に、感情を素直に表してよいのだ。スクリプチャーソングの中に「悲しみは笑いに、苦しみは喜びに、嘆きは踊りに直ぐに変わる」という歌があるが、無理があるだろう。却って主イエスも「悲しんでいる者は幸いである。慰められる」(マタイ5:4)と言われた。所謂「悲しみ作業」を経ないで無理すると後で堪える。 2.「立ち上がる」 「…死者の傍から立ち上がり」(3) 「立ち上がる」は身体的な意味ばかりではなく内面も含めた言葉。充分悲しんだ後、精神的にも立ち上がっていったのである。過去の悲しみに縛られて生きることは死者も願っていない。悲しんだ後は、どこかでけじめを付けて立ち上がることなのだ。でも、どの様にして立ち上がる事ができるか? →神の力強い御言葉と人の優しい態度である。 【証】1985年ジャンボジェット機墜落事件で…悲しむ人に八百屋さんの心優しい慰め… Ⅲ.真の故郷 アブラハムは妻サラの葬りのために墓地を購入する。そして「私はあなた方の処に寄留している異国人ですが」(4)と言う。異国人とは人種のことではない。魂の故郷のことである。→ヘブル11:13-16 【適用】今まで多くの方の最後を見てきて無心論者でも強い人はいたが、希望のある死は信仰者の場合。本人も家族もそうだった。 |
2013年9月8日 主日礼拝
「ひとり子さえ」創世記22章1節-14節
| 【序】020オリンピック開催地は東京と決まった。年輩の方々、アブラハムの様に長生きされて私と一緒に観戦しましょう。…さてそのアブラハムだが、人生最大の試練を経験する。この場面が絵画、小説、映画の題材になり、「信仰の父」として賞賛される事になる。私たちも様々な試練を受けるが、それと併せて学びたい。
Ⅰ.この試練の重さ ①我が息子を献げる重さ 親より先に子が死ぬ事でさえ深い悲しみなのに、息子を神に献げよ、とは何という残酷な命令(レンブラント絵参照)父の気がふれたのでもない。神の命令だという! ②神の意図が分からない(理解しがたい重さ) 神が与えておりながら、再び奪うとは不可解! Ⅱ.この試練で問われていることは何か この試練を理解する為の鍵は→「あなたの愛する一人子イサクを…」(2) アブラハムにとってイサクは目に入れても痛くない息子であった。しかしその愛する子も又神が与えて下さったものである。それがいつの間にか与えて下さった神よりも、与えられたものの方が大事になってくる。神が第1であるべきなのに、神が下さったものが第1になる。息子が神になっていた。これが問題!私達は元々裸で胎を出て裸でかしこに帰る存在。命も家族もお金も仕事も神から戴いたのに、いつの間にか「わがもの」になり、執着が生まれる。いつの日か子であれ物であれ手放す時が来るのに出来なくなるのだ。これが問われた試練であった。私達も人生で何が自分にとって一番なのかを問われる! 【証】34才の私の経験(教会が経済的自立をし駅前伝道で二人の男性が導かれ受洗した年…「わたしの羊を飼いなさい」(中西、あなたの羊ではありません)私にとってのイサクは「教会」だった事に気付いた。 Ⅲ.アブラハムはどのようにして試練を乗り越えたのか 「イサクを捧げよ」であるが、そのイサクは神が与えられた約束の子である。そのイサクを捧げれば、約束の意味が無くなるではないか!この解決の鍵は、ヘブル11:17-19にある。復活信仰!人生の矛盾の解決は、神の言葉は厳しくとも間違いはないのだと信じて行動していくことなのである。この経験での信仰が後の世にアブラハムが信仰の父と言われた理由である。アブラハムは神に間違いはないと信じて行動した時、イサクに代えて羊を備えられたー「主の山に備えあり」(14) アブラハムのひとり子イサクは助かった。それを神は「捧げた」と賞賛さえして下さった。 しかし翻って覚えたい事は、2千年後、このモリヤの地にゴルゴダの丘に十字架が立った(伝承)。神の御子キリストが人類の救いに為に犠牲の羊として自ら命を捧げて下さったのだ!何と大きな神の愛であろう!→ヨハネ3:16 |
2013年9月1日 主日礼拝
「約束の通りに」創世記21章1節-7節
礼拝説教を聞く。
| 【序】静岡で伝道している牧師がいる。住んでいるのが海辺の町なのに名を「山中」といい、下の名前を「笑」(ワロオ)と言う。イサクから付けられた名前だそうだ。今日はそのイサク誕生の箇所。しかしこの赤ちゃんの誕生は、ただアブラハム老夫妻に子供が産まれたという事以上の意味を持っている。それは何か?
Ⅰ.神は真実である 「約束の通り」「仰せの通り」(1)と神の言葉の真実さが強調されている。イサク誕生は神が約束を守る真実な方であるかを示す印である。(人は風呂屋の商売―湯(言う)だけと皮肉られたりするが…)神から約束されていたイサク誕生まで25年擁したが、神はその約束を違わず実現された。それは今日「聖書」に聞き従って生きる者への励ましである。なぜならアブラハムも神の言葉の実現を待てず、心が切れそうな時が度々あった様に、私たちも神の言葉がなかなか自分に実現しないように思えて焦る事があるからだ。しかし覚えたいのは、人の時と神の時があるという事だ。神の時は人の時にまさる最善なのだ。私たちの最善の人生を計画して下さる神は度々、人間の思いを越えるのだ。しかし最善なのだ! 「わたしの思いはあなたがたの思いと異なる…高い」(イザヤ55:8,9) Ⅱ.神は全能である アブラハム100才、サラ90才の時イサクは誕生した(5) なぜ神はわざわざ人間的には生む力がなくなった時にイサク誕生を実現されたのか?それはアブラハムは「信仰の父」。後に生きる人類にとって希望の星のような人物。アブラハムを知って「ああ人間的には不可能に見えても、可能にする神がおられる。有限の世界も無限への可能性があるのだ」という希望を伝える人物なのだ。更に大切なことは神は全能の力を人間の弱さの中で示されるという事だ。主イエスは大いなるパンの奇跡の為に少年が差し出した弁当のパンを用いられたが、その際、主の弟子アンデレが「こんなに大勢では何になりましょう」と嘆いたが(ヨハネ6:39)、自分を小さく見過ぎないようにしよう。 【適用】川に生える葦は雀一羽が止まれば折れるほど弱いものだが、この茎を切って七つ繋いで吹けば、「ダビデの葦笛」これが今日のパンの笛の原型と呼ばれる素晴らしい楽器となる。我々の限りある才能や条件だけで判断しない事だ! Ⅲ.神は恵深い アブラハムは良い事もしてきたが、酷い事もしてきたのである。神の養いでは不安でエジプトに頼り、自分が助かりたいばかりに妻を窮地に陥らせ、神の言葉を待てず女奴隷の子を設けて家庭騒動…。その数々の不真実にも拘わらず、神はイサクを与えられた。何という恵か!神は人の罪にも関わらず恵深いのだ。ガラテヤ3:6-9 100-1=99だが、人間関係では100-1-0にもなる(彼の本性が分かった、もう絶交)しかし神の計算は100-100-100マイナスの100にも拘わらず、100!恵を賜る! |
2013年8月25日 主日礼拝
「人生の嵐に悩む時」マルコ4章35節-41節
| 【序】人生、スイスイと行ってほしいが、現実は様々な嵐が起こる。そんな時「これからやって行けるか?」と不安と恐れに囲まれるのだが、聖書には「恐れるな」「怖がるな」という言葉が360回も出てくる。1年は365日であるから神様は私達にほぼ毎日「恐れるな」と語っておられる計算になる。それ程、恐れに囲まれる事が多い私たちへの神の励ましがあるという事だ。ぜひ今日の聖書から神のメッセージを受け入れて頂きたい。
Ⅰ.人は人生の嵐に無力である イスラエル北部にあるガリラヤ湖は美しい緑の山々に囲まれているが、時に山からの突風(37)があり、舟が水をかぶり弟子達はパニック!弟子達は漁師であったから少々の嵐は経験済みだが、今回は「どうしてそんなに怖がるのか」(40)と言われた程、慌てふためいてしまった。それは彼らが自分の経験や知識では通用しない「嵐」を経験したからである。 【適用】世には神様なんか信じなくても自分の知識、経験で何とかやっていけると語る自信家がいるが、それは自分の力で何とかできる範囲の嵐しか経験してこなかっただけ。しかし自分の経験や知識に限界無力を感じる嵐がある。だから強がる事をやめよう。素晴らしい事に、恐れの時は、もう一回りあなたが大きくされる世界を知る時なのだ!∴神はその祝福に導こうとされているのだ。 Ⅱ.人生の嵐に悩む時、どうすればよいか 1.自分の運命を決めつけては行けない―「溺れ死にそう」(38b) (原語―死に向かっている、との断定!)人生の嵐に囲まれる時、弟子達の様に、自分の将来を勝手に滅びると決め込む弱さを持ち易い。しかし、そうではない。人の未来を決定するのは人ではなく神なのだ。 【証】自分なんてダメだと思いこんだ人… 2.僻みを捨てよー「何とも思われないのですか」(38) 恐れの時、頼れるものを失うと、不安になり他人を恨み僻みやすい。自分なんてどうせ顧みられる価値がないのだ、と。しかし自分の価値を自分で決めるから僻み易くなるのだ。神を見上げよ!価値は無限に拡がるからだ! 多くの人は自分を価値ずけるものを専ら求めている。「命は大切だ、命を大切に、そんな事何千回何万回言われるよりも、誰かが、「あなたは大切だ」と本気で言ってくれたらそれだけで生きていける」(日本公共広告機構)→自分を高く評価してくれる絶対的なお方を知りなさい(イザヤ43:4!) 3.人生の嵐を沈めることのできる方と共に歩みなさい 「黙れ。静まれ。すると風は止み大凪になった」(39) キリストは天地創造された神の御子であるから、その手の作品である自然を支配できるのは当然!私達には人生の嵐を沈める力はなく慌てふためいてしまうが、感謝な事にそんな私たちと同船し「嵐」を沈めるお方が共に歩んで下さる。主イエスを信じて共に歩まれることをお勧めする! 【証】あなたには「縦の平安」が必要ではないか! |
2013年8月18日 主日礼拝
「ソドム崩壊とロトの救出」創世記19章1節-29節
| 【序】今日はソドムの町に下った凄まじいまでの神の審判とそれに巻き込まれたロト一家の姿。これ程悲惨な箇所は聖書の他に類を見ない。時にしっかり見据えて神の正義を知らねばならない。そして十字架の恵みを覚えたい。
Ⅰ.ソドムの罪と裁き 旅人達がソドムの町に着き、ロトの家でもてなしを受けていた時、まるで野獣が食い物をあさり唸り声を上げる様な異様な事が起こる。 「知りたい」=性的な意味→男色!(なんと若い者から年寄りまで全ての者が!) この町に罪の腐敗を防ぐ神の審判が下ったのだった。私達は「神が愛である」という理解を、何でも「よしよし」と言う愛のように思いがちであるが、神の愛は贖罪愛である。つまり、私達の言葉、行い、思いの罪、その回数、その頑なさを思う時、言葉一つで人を殺しうるものを持っている私達に地獄行きの宣告もやむなしのところ、神の御子が身代わりの裁きを受けて下さったのだという罪の贖いを知った上での神の愛の理解でなければならない。 【適用】私達の感謝はどこに根ざしているだろう?健康や物事が上手く行った事も感謝であるが、果たして十字架なしでは感謝が浅くなる。物事が上手く行かない場合は簡単に不満と変わってしまうのだ。滅んで当然の私達にとって十字架の恵は変わることがない。 Ⅱ.ロトの問題 アブラハムと別れて20年、ここに来て一挙に彼の問題性が噴出してくる。 ①娘達を野獣の様な人々に提供してなだめようとする(8) あるべきでない! ②町の評判-「さばきつかさ」(9)の様に振る舞うと非難。常に彼らの批判ばかりをし裁いていたのだ。それに対してアブラハム→「神のつかさ」(23:6)-アブラハムは地域の人に信頼され尊敬されている。この違い!我々はどうか? ③婿達に信頼されない(14) ④世への執着(16)―20年前の牧草地選びの付けが回ってきたか?! ロトは叔父から何を学んでいたのか?信仰よりも牧畜の営みだけだったのか? Ⅲ.神の憐れみ 「神が町々を滅ぼされた時…アブラハムを覚えておられた、それでロトを破壊の中から逃れさせた」(29) こんなロトであったが憐れみ深い神はロトを救出すべくアブラハムのとりなしの祈りに答えられる。有り難くも心に留めるべき真理! 自分が助かったのは運が良かった、普段の心がけが良かったからだと思うべきでない。自分の知らない所で心ある家族が、友が、教会の誰かが、そして大祭司であるキリストが祈ってくれているお陰だという事!自分の知っている部分が全てではない→Ⅰコリント8:2! |
2013年8月11日 主日礼拝
「とりなし手の価値」創世記18章16節-33節
| 【序】私は18才で信仰をもったが、やっと信じれた喜びを学校の帰りに宣教師に報告したら、「あなたの為に祈っていましたよ」と言われた。自分でも、もがいてやっとの思いで信じた積もりが、とりなしの祈りのお陰であった。恐らく天国に行ったら、知らないところで多くのとりなしの祈りのお世話になっていた方を知るだろう…。ところであなたは誰かの為に「とりなしの祈り」を続けている人がいるだろうか。又、誰かを助ける為に労している人がいるだろうか。それは神に祝福される事である。この真理をアブラハムの姿から伝えたい。
Ⅰ.親切の価値 アブラハムに神が全能の力をもって約束の子を与えると語られてしばらく経ったある日の暑い昼下がり、三人の旅人(実は神の使い)が彼のテントを訪れる。その旅人へのアブラハム達の親切なもてなしぶりを聖書は丹念に書く(3-8)。 ・「少し食事を」と言いながら→「パン菓子、チーズ、牛乳、子牛の料理」の大盤振る舞い、かいがいしく働くサラ、かつての仲違いが嘘の様に親切にもてなす二人の姿) ・もてなしの後の見送り(16) ひと通りの親切に留まらない。食事を出せば「ハイ終わり」ではなく、見送りながら道先案内も務める。そしてこの親切心故にアブラハムは甥ロトに関する重大な機密を聞くことになる(17) 【適用】親切は次の祝福された展開を生み出すきっかけになる→コロサイ4:6 Ⅱ.愛の価値 三人の神の使いはアブラハムにロトが住んでいるソドムとゴモラの町の罪は甚だしく、もしそれが事実ならば神の審判が下される事を語る(20)そこからアブラハムと神との有名な直談判(50人の正しい人がいたらその町全体を滅ぼされますか?!)が23-33節まで続く。この直談判に見られるのは甥ロト一家を心配する愛の姿。恩知らずのロトの為に神に助けと救いを求める叔父の愛の姿!50人居たら、45人居たら…と長々とその問答が書かれていることに、愛する者が滅びないように専ら願う愛の姿と、その愛に答えようとする神の愛に心打たれる。ロトはその愛と祈りを知らない。アガペの愛は相手のために相手を愛する愛。エロスの愛は自分のために相手を愛する愛、この違いは大きい。 Ⅲ.とりなし手の価値 甥ロトの滅びる事を心配する叔父アブラハムのとりなしの祈りは、聞かれる事になる。10人の正しい人さえおらず、町は滅びるのだが、ロト家族は救いに預かる。叔父のとりなしの祈りのお陰である。(19:29) 【適用】あなたの家族や親族の現実が厳しく、たった一人が祈って何になる?と聞く事がある。しかし一人の祈りでさえ通じるのである。あなたの環境は一向に好転しないように見えるかも知れないし、凄まじいまでの罪の現実かもしれない。それを見てとりなしの祈りを諦めているのだろうか?そうあってはならない。あなたのとりなしは覚えられるのである。とりなし手への約束→詩篇41:1,2 |
2013年8月4日 主日礼拝
「不可能への挑戦」創世記1章8節
礼拝説教を聞く。
| 【序】冒険家の三浦雄一郎さんは今年5月23日80歳でエベレスト登頂を成し遂げた。実は満身創痍であった。世界最高峰はおろか、一時は散歩も難しかったのだ。狭心症その後に不整脈。今回のエベレスト登頂に出発する直前の1月、不整脈の手術を受けている。担当医は「三浦さんの脳には高齢者によく見られる脳の萎縮がなかった」と語る。正に不可能への挑戦であった。…今日の聖書に出てくるアブラハムは99才の時に神は彼に語られる「あなたには約束通り子供が与えられ、多くの民族の父となる」と。子供を生める身体ではない99才の不可能への挑戦。しかしこれが歴史の事実になった。息子イサクが生まれ、今のイスラエル民族と拡がる。この歴史の事実が意味するメッセージは何か?お伝えしたい。
Ⅰ.神は全能であるという希望を人類に与える 「99才になった時」(1)とある→人間的には子供を生める年齢ではない。特にサラは89才。(127才まで生きたサラは現代年に換算すると60才!) なぜ出産不可能な年に敢えて神はその全能を知らされるのか。それはアブラハムは「信仰の父」。 後に生きる人類にとって希望の星のような人物。アブラハムを知って「ああ人間的には不可能に見えても、可能にする神がおられる。有限の世界も無限への可能性があるのだ」という希望を伝える人物なのだ。→ローマ4:18 私たちにとって神の全能とは、私たちが関わる問題を完全に取り除くか、その問題を問題としないほどの力をもって乗り越えさせるか、である。 【適用】リコー創業者市村清氏「儲けるは有限、儲かるは無限」と言った。信仰の世界なら「生きるは有限。生かされるは無限」「生きよう、生きよう」と自分で頑張るなら、その命は狭い世界に閉じこめられてしまうが、神に「生かされる」事を悟り、それに安らぐなら限りなく自由に無限に生きられるのである。 Ⅱ.神の沈黙は神の拒絶を意味しない 神がアブラハムに語られたのが13年前(16:16)それ以降は語られていない。アブラハムとサラは神の語りかけがない事を焦りと不安の中で「もう神は私たちの願いも無視されているのかもしれないという思いに駆られたことだろう。しかし神の沈黙は拒絶を意味しない、神の沈黙は私たちの思いを越えた別の答があることを意味するのだ。【例】パウロの欧州伝道の例… Ⅲ.神に対して真正面に向きなさい 「あなたはわたしの前に全き者であれ」(1) この意味は、神に対して真っ直ぐに立て、との意味。即ち誰かの関係とか、何かの条件を付けてではなく、又ひねくれて斜に構えてではなく、本来創造者である神とあなたとの間が1対1の関係で、真っ直ぐに立て、との意味。 【例】あなたが神に向かうのは誰かの関係であってその人が居なくなれば、もう来ない、とか、商売が上手く行くという条件が満たされている場合だけ神を信じるというのではなく、本来神に造られて私たちが神との1対1の関係を持ちなさい、ということ。それが神の全能の力の体験に必要なこと。【証】星野富弘さんの前向きな力… |
2013年7月28日 主日礼拝
「問題を笑い飛ばす」箴言17章22節
| 【序】私はお話を聞く機会が多いが、深刻なのも多い。大変だなあと思う反面、もう一つ別に思うのは、問題を深刻に悩む代わりに笑い飛ばすことができたら、どんなに良いだろうか、という事だ。元来、日本人は真面目。それだけに問題を深刻に捉えて悩みこんでしまう。すると気持ちもふさがり、見える答えも見えなくなってしまう。明るく笑い飛ばすことができれば解決も近づいて来る。
Ⅰ.陽気な心こそ究極の健康法である ある医者が箴言17:22を読み「現代医学がやっと到達した究極の健康法が既に聖書に3千年前にあったとは!」と驚く。若者は健康法なんて関係ない?確かに体はそう。しかし心は? ・広島の16才女子による凄惨な殺人事件…(原因「切れた」からだという) ・国際語になる日本語(「津波」「過労死」)―国際弁護士佐々木満男氏の東大OB会15人中4人過労死)ーでの合い言葉「死ぬなよ!」―「悩みに対する戦略を持たないビジネスマンは若死にする」(カレル氏 ノーベル医学賞) 【例】ノーマンカズンズ(米国UCLA医学部教授)『笑いと治癒力』 「よく笑うことが重い病の治療のために大きな効果があると語り、自らも回復可能性五百分の一の難病膠原病に罹ったが、箴言17:22を知り、よく笑うことによって奇跡的に直ることができた「病気は笑い事ではないが、笑い事であるべきだ、笑っている場合ではないときこそ実は笑うべきなのだ」 Ⅱ.どうしたら「笑い飛ばす」生き方ができるか 人は自分の問題が悪くなるのではないかと思うから、問題を笑い飛ばせないのだが、もしその問題は決して悪くはならないと知れば、ゆとりさえ生まれる。ただ人は明日のことが分からないので安心できないわけである。しかしここに福音がある。2千年の歴史で多くの人に裏打ちされた聖書は不安な私達を安心させてくれる→ローマ8:28「…」 【例】曾野綾子『人は最期の日でさえやり直せる』 「面白い事に信仰を持つようになると失敗した人生というものはなくなるのである。それは何をしても失敗しないという事ではない。ある人間の生き方が常に神の存在と結ばれていれば、仮に些かの、或いはかなり大きい挫折はあっても、どの様な人生にも意味を見いだす事ができるからである。これは心理学者、劇作家にも為し得ない逆転劇であり、解放である」 ∴人生の祝福の鍵はあなたの知恵や経験ではなく、神と神の言葉へ信頼なのである。 Ⅲ.人生の悲劇にも意味を見いだし喜びの人生を得た人の証 盲目のテノール歌手、新垣勉さんの証… 1.人生の悲劇も又祝福への伏線である 2.自分を価値づける存在との出会いこそ、悲劇の解決である バランドーニ師のような人との出会いは希かも知れないが、誰にも語られる最高の愛のメッセージがある「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4) |
2013年7月21日 主日礼拝
「A家の家庭騒動と解決」創世記16章1節-10節
礼拝説教を聞く。
| 【序】週刊誌などは時に芸能人の家庭をのぞき見るーどちらかというと悪趣味であるが、聖書は唯一他人の家庭をのぞき見ていい本。そこから学ぶ事のできる聖なる本である。今日は敬虔なアブラハム家に家庭騒動が起きた所。そこで①何が原因で起きたのか。②どの様な結果が生まれたか。③解決の道は何か、を伝えたい。
Ⅰ.家庭騒動の原因 きっかけは妻サラからの提案(1,2)。日本の江戸時代でも、将軍に世継ぎがない時、側室から得たのと似ている。アブラハムは提案を受け入れる。当時の慣習では道徳的に問題はなかったが、神の御旨ではなかった。この提案は夫思いから出た提案だったかも知れないが、やはり不信仰が根にある。前章で神があれほど「世継ぎは親戚の子でもなく僕を養子にしてでもない、あなたから生まれる子」と言われ、夜空の星を見せて「あなたの子孫は星のように多くなる」とさえ励まされ、アブラハムも信じた筈なのに、この始末!だからこの提案の根には不信仰がある、不信仰と言って神を信じられないのではない、信じてはいるのだがが、神を待てない、神の愛の御旨を信じ切れずに、早まって行動してしまう、これが根本原因である。 Ⅱ.提案を受け入れた後の結果―苦い結果 ○提案が仇になって女主人サラを見下げるハガル(4)(映画「天地創造」のハガルの姿) ○夫婦間の争い(5,6)―夫へのきつーい一言! 夫(「ごらん…」とはいえ、たじたじー逃げ腰) ○いじめ(6,世界最初のいじめ?)→○ハガルの逃亡(6)―世継ぎを失いかねない危機! 【教訓】まるで神を恐れ敬う家庭とは思えない現実。肉なる思いが支配すると、どの家庭でも信仰者の家庭も例外ではなく家庭騒動が起こるのだ。でもどうしてこんな変なことが起こったのか?→2節のところで祭壇があるべき!飢饉の時も祭壇無し。大事なときに祭壇が抜けるアブラハム。気をつけたいことだ。 Ⅲ.神による解決 このような罪と不信仰はアブラハムとサラの身から出た錆であったが、憐れみに満ちた神は解決の介入をして下さる。先ず危機的状況であるハガルから介入される→先ずハガルに声を掛け、その苦しみを聞き入れた上で「主人の元に帰りなさい」(これは同時にサラの心も変えておくということ)。更には子供を大いなる民族にする 尻拭いをして下さる有り難い神! 【結び】この章はアブラハムとサラの肉の性質に翻弄された弱い姿が記される。しかし励まされるのは、神様はこの様に弱く肉に生きがちな者にも恵深く失策を尻拭いして下さるお方だと言うことだ!ある方から悩みを聞いた。 「私のように明日を思い煩うなと何遍言われても直ぐに又思い煩ってしまうんです…」「でもイエス様は明日の心配などどこ吹く風という人よりも、直ぐに思い煩ってしまう人の方が面倒見甲斐があるのではないですか。」感謝しよう! |
2013年7月14日 主日礼拝
「恐れを取り除く神」創世記15章1節-7節
礼拝説教を聞く。
| 【序】人生には不安と恐れがつきまとう。人間関係、身体、仕事、家庭、将来…今までの経験や知識が通用しなくなる場合もある。そんな時どうするか。信仰の父と言われるアブラハムも「不安と恐れ」に捉えられた。一体それは何か。また神はどう対処して下さるのか、共に学びたい。
Ⅰ.アブラハムの恐れ 神が「恐れるな」(15:1a)とアブラハムに語られたという事は彼が恐れていたからである。何を恐れていたのか?→「これらの出来事の後」とある。実は14章の出来事と深い関連がある。強欲で恩知らずのロトがちゃっかり良い牧草地を先に選んで叔父アブラハムにさっさと別れを告げてソドムの町に移り住んだが、戦争に巻き込まれ、家族、財産を奪われてしまう。そのニュースを知ったアブラハムは、僕318人を連れてロト救出のため追跡し助け出す。その結果、敵からの逆襲を恐れたわけである。 【適用】私達も人助けと思い、又良いと確信して事を実行している間は夢中で取り組んでいるが、終わってから、回りが気になりだし急に恐れが出てくる場合があるのではないか。 Ⅱ.恐れを取り除く道 1.神こそあなたを守る最強の盾である どんな恐れでもその恐れの根元は「守ってくれるのは、頼りにならない自分しか無いという一人ぼっちの心細さ」 自分で何とかやっていけると思える時は恐れがないが、ひとたび自分で守りきれない事がやってくると、堪らない恐れが生じる。恐れから守る者は誰か?あなた自身でも他人でもない。あなたを造りあなたを愛しておられる神なのだ。→「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である」(15:1)神こそ悪や試練の攻撃から守る強き盾! 【証】第二次世界大戦中、ヒットラーの軍隊の進撃におびえたオランダの小さな村で…少女の祈り→ひと晩の大雪で家々が囲まれ守られた、正に雪の大盾!(詩篇5:12) 2.解決にならない近道を求めない アブラハムは、神が守ると聞いて疑問が出てきた。「あなたは盾となると仰って下さいますが、私を祝福し子孫を与えると言われるあなたのお言葉でさえ実現していないのですよ。もう親戚のエリエゼルか家の奴隷を養子にして結構ですよ」(2,3) このように約束が実現しそうにない時、不安や恐れで間違って解決にならない近道を選択してしまうことがないようにしたいものである。 3.あなたの未来の祝福を信じること 神はアブラハムに夜空を仰がせ無数の星々を見せ「あなたの子孫はこうなる」と言われ、アブラハムに「神への信仰」を与えられた。信じるという事は未来の祝福を掴む鍵である。問題は何を信じるか?良いものを信じるなら祝福だが悪いものもある(例…)→神の言葉を信じる事こそ祝福の未来を掴む鍵!【証】フジ子ヘミング… |
2013年7月7日 主日礼拝
「損得のどんでん返し」創世記13章5節-18節
礼拝説教を聞く。
| 【序】買い物で「得をしたと思ったのに損だった」があるだろう。逆に「損をしたと思ったが得だった」という事もあるかもしれない。しかし初めから敢えて損を選ぶ人は先ずいない。ところがそういう人がいた。アブラハムである。いかなる考えがあっての事か?また神はこういう人をどう扱われるのか?を学びたい。
アブラハムは甥のロトの面倒をみ、牧畜業も教え一人前にさせる事ができホッとした頃、それぞれの僕同士で土地を巡って争いが生じた。その時アブラハムは自分にも良い牧草地が必要なのに、ロトに好きな土地を選ばせて独立させる。ここから学ぶことがある。お伝えしたい。 Ⅰ.目標は得よりも平和 ロトをはじめ僕達の思いは「やれ羊を取った、取られた。牧草地に侵入した、侵入された。喧嘩してでも取り返すぞ」という利害に絡む権利の主張。しかしアブラハムの最終目標は違った「争いの無いようにしてくれ」(8)つまり平和が目標。人間の成熟度は権利の獲得よりも争いがない平和な関係を保てるかどうか。又それを目標にすれば後で分かるように利益も道も開かれる。平和を目標にすることは私達も家族や組織の中で目標にすべき大切な真理→ローマ12:18 Ⅱ.優先権さえ譲る心の広さ ロトにとってアブラハムは父が亡くなった時からずっと面倒を見、仕事も教えてくれた大恩人。「叔父さんこそ先に選んで下さい」と言うべきであったが「それなら」とちゃっかり良い土地を選んでさっさと別れて行った。ロトは恩知らずであった。 川柳「渋柿や丸八年の恩知らず」… それにしてもアブラハムの太っ腹というか私利私欲のない高潔さである。 (私もウエスト的には太っ腹だが…) アブラハムはどうしてそうなり得たか?エジプトでの私利私欲に生きた惨めな結末という失敗から大いに学んだのであろう。失敗は成功の元。大事にしたい。 Ⅲ.神は損を得に変えてくださる ロトは20年後火山爆発で得た財産も手放し身一つで脱出する悲劇を招く。一方損をした筈のアブラハムはロトが選んだ土地さえ転がり込むことになる。(14-17) 結果、損ではなく得だった!まさに主イエスが教えてくださったように「受けるよりも与えるほうが幸いである」を身をもって経験したアブラハムであった。【証】Yくんのお見舞い… 【結び】あなたは損な役回りをしているかもしれない。先の利を取られ、失い、損をし悔やんでいるなら、アブラハムを思い出そう。損をしたのではない。失ったのではない。後に与えられる更なる神の祝福の為に小さな利益を譲ったのである。神の時が来て必ず祝福を得るであろう。→ルカ6:35 |
2013年6月30日 主日礼拝
「神が望んでおられること」Ⅰテサロニケ5章16節-18節
礼拝説教を聞く。
| 【序】本格的な梅雨が始まった。天候や状況の変化、人の言動で憂鬱になっていないだろうか。今日の題は「…」だが、信仰生活の基本について語りたい。これら3つを選択・実行して頂きたい。
Ⅰ.どうしたら、いつも喜べるのか パウロは、根拠もなしに「ただ喜べ」と言っているのではない。ピリピ4:4で「いつも主にあって喜びなさい」と、「主にあって」私たちも喜べるのだと教えている。喜ぶ理由を2つ挙げる。 ① 救いの恵み…学校の成績や人間関係など、目に見える現象だけに翻弄される必要はない。神との個人的な関係と、十字架による救いの確信こそ、私たちの揺るがない喜びである。もし、信仰を持たれるなら、喜べる理由は他にも沢山ある(主の約束1つ1つに心を留めなさい)。 ② 主が共におられるから…あなたが何をし、どこにいようとも、主はいつも共にいて下さる。 Ⅱ.絶えず祈ることは可能か? 祈りとは”神との会話“である。私たちはいつ、どこでも、何をしていながらでも神と会話することができる。1日のうちに、短い言葉で何度も祈るのは、神との関係を築く上で良い方法である。天地を造られた全能の神は、あなたや私と親しく話したい、共に時間を過ごしたいと願っておられる!イエスが祈られた「アバ、父よ」は、言うなれば「お父ちゃん」との呼びかけである。私たちはもっと気軽に神に話しかけて良いのだ。 好きな人のことは、頼まれなくても意識しているもの。あなたは絶えず、神を意識しておられるか?ダビデ・ダニエル・パウロ等は、日に3度祈る習慣を持っていた。あなたもぜひ神と会話しなさい。 Ⅲ.「すべての事について、感謝しなさい」の意味 「すべて」の中には、悲しい出来事や辛い体験も皆、含まれる。どうしてそれらを感謝できようか?しかし主は「苦しみそのものを感謝しなさい」とは言っておられない。「すべての事について」とは「すべての事の中にあっても」という意味だ。あなたの人生に起こるすべての事を神が支配しておられ、それらすべてを働かせて”益”と変えて下さる(ローマ8:28)。だから、神に感謝できるのだ。 【証】映画 ”ソウルサーファー”のモデル、べサニー・ハミルトンさん。片腕をサメに食いちぎられ、瀕死の重傷を負ってプロの道を諦めかけるも、信仰によってもう一度サーフィンをするようになる。「悲しく思える出来事の背景にも、何か必ず神のメッセージがあります。腕を失ったことは、むしろ幸せです。誰かが希望を見出す手助けができるなら、私が腕を失った価値はあったと思います。」 |
2013年6月23日 主日礼拝
「明日のための心配は無用です」マタイ6章25節-34節
| 【序】今日の主題「…」。勿論、誰も好きで心配なんかしない。できれば心配などしたくない。しかし現実は心配せずにはおれない状況。しかも心配は心と体に悪い影響をもたらす。そんな私たちにキリストは現代を見通すかのように聖書を通して語って下さっている。心して聞きたいものだ。
Ⅰ.明日のための心配は取り越し苦労である 「明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります(34) ・明日のための心配を今日もし、明日もしてしまう。これは取り越し苦労なのだ。「取り越し苦労」を辞書で調べると「将来の事をあれこれ考えて余計な心配をする事」とあった。やはり「余計な心配」なのである。 【心配性の婦人】…30才で健康診断をし、それ以来「自分はガンで死ぬ」と思い込み、家族や友人に会う毎に話していた。回りも聞く度に嫌な気分…その婦人が死んだのは72才で死因は肺炎だった。 だから余計な心配をして自分と回りを不快な気分に巻き込まないことだ。 フランスの思想家モンテーニュ「私の生涯は恐ろしい禍に満ち満ちたものに思われた。しかしその実際は起こらなかった。心配事の的中率は1%に過ぎなかった」(『随想録』) しかし人間はその1%に怯える小さい者でもある。そういう私達にキリストは、どうしたら心配から解放されるかを示してくださる。 Ⅱ.心配から解放されるために知るべき事は何か 1.神は私達に「最善」の取り扱いをしてくださる(30) 30節の「よく」とは「最善」の意味。何がこれが「最善」か?と思う時もあるが、知っておきたい事は、神が導かれるのは「最高」ではなく「最善」の人生である。人生の途上では「最悪」と思えた事も、その後の人生で最悪を作り変えて「最善」に導かれる神がおられる。 →ヨセフの例! ∴人生の途上で結論を出すな。ヨハネ13:7 2.神は私達の必要を求める前から既にご存じある(マタイ6:8) 私達を造り、愛して下さっている神は、私達が必要と思っている事、それ故に心配して祈るのだが、その祈りをする前から、必要をご存じである。 【証】開拓伝道の開始時における生活の必要… Ⅲ.神が人に求められることは何か 「神の国と神の義を第一に求めなさい。そうすればこれらのものは全て与えられます」(33) この世の事に自分の知恵だけで関わると、心配が絶えない。思い切って神を第一に求めていくことだ。そうすれば必要は備えられ、平安な人生が展開する。 【証】不幸な育ちの青年の不安と絶望、神との出会い、信仰、幸い… |
2013年6月16日 主日礼拝
「俄に起こる恐怖に怯えるな」創世記12章10節-20節
| 【序】モヤシなら一夜漬けでいいが、樫の木なら多くの風雪に耐えて巨木になっていく。神は私たちをモヤシのような者ではなく、樫の木のような風雪に耐え得る人間、信仰者にしようとしておられる。しかし今日の箇所は俄に起こる恐怖でアブラハムのエゴイズムが出てしまう処である。私達と重ねて御言葉を聞いていきたい。
Ⅰ.アブラハムの試練は何だったのか 「この地に飢饉があった…この地の飢饉は激しかった」(10) 食べ物が無い、これだけでも大きな試練だが、更に深刻なのは「この地に飢饉!」つまり、神が約束され導かれた土地で飢饉があったという事。神に従ってきたのに、しかも「この地を与える」(7)と言われたのがこれか! 何で? 【適用】試練とは表面上の苦しみの他に神に従って確かなのか損なのか?こういう思いが浮き彫りに出てしまうのが試練である。試練を通して風雪に耐えた樫の木の様になる事が神の意図であるが、問題は神の意図を悟らず人が現象だけで楽か苦かと判断してしまう処にある。 Ⅱ.アブラハムは試練にどう対処したか 「エジプトの方にしばらく滞在するために下っていった」(10) エジプトは古代では、人間の力、この世こそ全てとする国(イザヤ31:1) ∴エジプトには下っては行けない事が聖書に度々記されている。アブラハムはそこに下ろうとする。そして言い訳もある→「しばらく」(10)=この時だけ神様に目をつぶってもらおう、今は生活が厳しい。一寸だけ!後から元に戻るから…俄に起こる試練に普段大切にしていた信仰もどこへやら??? ここに人間の弱さ、愚かさがある。Ⅰコリント10:12「立っていると思う者は気をつけよ」 Ⅲ.アブラハムはエジプトで何を経験したか 「私の妹だと言ってくれないか」(11-!3) 自分だけが助かりたいという醜い自己中心が露呈される!彼は自分が助かりたい為に妻を犠牲にしようとした!(全ての女性から総スカン食らう言葉!)これが信仰の父と仰がれたアブラハムのもう一つの姿! 家族は最も愛すべき存在だが、最も傷付けやすい関係でもある! 【結び】なぜこんな自己中心に走り、人に被害を巻き散らすことになったのか?その原因はどこにあるのか?→一つ言えることは、あれ程場所を変えるたびに築いてきた「祭壇」がない!それが彼の判断を狂わせ惨めな結果を生みだした。 |
2013年6月9日 主日礼拝
「重荷を軽く感じる生き方」創世記12章5-8節
| 創世記12:5-8 「重荷を軽く感じる生き方」 13/6.9
【序】私達は好むと好まざるに拘わらす重い責任を負わされる事がある。家族の責任、仕事や学校での責任…重荷を負うと疲れ、力を失う。できれば全部パーと捨てて…という訳にもいかない。重荷を負わされたとき、どういう歩みをすればいいのだろうか。アブラハムからその秘訣を学びたい。
Ⅰ.アブラハムの負わされた重荷 神の導きでバビロンから約束の地カナンに旅をする途中で、アブラハムの弟ハランが死ぬ。ハランには一人息子ロトがいた(11:27,28)。その甥の世話。更に頼みの綱父テラも死ぬ(11:32)。一挙にアブラハムに重荷が加わる。二千㎞に及ぶ旅の不安。経済の心配、甥ロトの世話…現代に生きる私達とは時代が異なるが、同じ様に家族の養い、世話、経済の不安や日々の重荷と似ている。しかしアブラハムはその責任を投げ出さなかった(12:5)。投げ出したくなる重荷を負い続けられる秘訣は何だろう。それはその重荷を軽く感じる道を知る事だ。
Ⅱ.アブラハムが重荷を軽く感じられた秘訣 「祭壇を築き主の御名によって祈った」(12:7,8) 「祭壇を築く」=神を礼拝し、神の言葉、聖書に聞き、祈るという生き方。 これが重荷を軽く感じて生きる力を得る秘訣である。彼は場所を変わる度に神の御言葉に聞き祈り祭壇を持っていたのだ。重荷があればそれを祈り神の御心を聞いていく。それが重荷を軽くするのだ。人生には自分の知恵や経験が通用しないような試練や重荷が出てくる。その時、神に聞く事が支えになるのだ。 【証】ニュートン「どの様な世界の歴史よりも聖書の中にこそ、より確実な真理が存在している」 ナポレオン「聖書は単なる書物ではない。実に生き物である。それに反対する全ての者を征服する力だ」ガンジー「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は聖書です」
Ⅲ.祭壇を築く事による恵=魂の安らぎ 聖書は、誰にも負う事ができない重荷を下ろすことができるお方を教えている。マタイ11:28-29によれば神の御子イエスキリストこそ、重荷を負う人に「わたしのところに来て休みなさい」と言い、更にキリストの元で現代の人が喉から手がでるほど欲しいと願う「安らぎ」を提供してくださるのだ。 【証】星野富弘さんの経験…この御言葉を読んだ時に感じた不思議な大きな愛と安らぎ…。その後、花を見てフト自分でも描けるかも知れない、と思い新しい人生が展開する。先ず自分の変化→次に回りの変化! あなた自身が魂の安らぎを得る事。すると回りに安らぎの影響が出てくる。 【結び】「あの人の顔を見ていると、嬉しくなる。楽しくなる。和やかになる。暖かくなる。微笑みたくなる。主イエス様。どれか一つの顔をお恵みください」(河野進) あなたの日々の顔は?(あなたの顔を見ると腹が立つ、文句を言いたくなる。ムカムカくる???)
|
2013年6月2日 主日礼拝
わたしはあなたの名を呼んだ」イザヤ43章1-4節
礼拝説教を聞く 。
|
創世記12:1―4 「あなたの名は祝福となる」 13/6.2 【序】誰でも時に自信喪失する事があるが、あなたを造られた神はあなたが思う以上にあなたを高く見積もっておられる、その事を今日から始まるアブラハムの生涯から先ず学んで頂きたい。 アブラハムという人は今から4千年前の人でユダヤ民族の太祖であり、祝福され信仰の父と尊敬された人である。それだけにアブラハムに語られた言葉は彼だけに留まらず、後に生きる人々の祝福の代表者として理解されている。
Ⅰ.神はあなたに出会われる 神は古代バビロニアに住んでいたアブラハムを名指しで呼び、選ばれたように、神はあなたに目を留め出会われる。(1) 【適用】あなたが教会に来た理由は? 家族、友人の誘い?教会の行事や集会?問題?それは表面的。真の理由は「神が選ばれたからあなたは来た」(ヨハネ15:16)それ故あなたを悩ませている問題も神があなたを呼ぶコールサインでもある。神があなたにあなたの創造者である神を知らせ、祝福を知る為である! Ⅱ.あなたの名は祝福となる 神との出会いは、単なる出会いではない。神が人と出会うのは何のため? ①「あなたの名は祝福となる」(2) あなたの存在そのものを祝福する為である。「名」とは変わらないもの。変わり易い一事的な所有や能力を超えた不変の存在そのものの祝福を与える為である。この祝福は変わらない。彼の生涯を知ると神の約束を待てず失敗し信仰もブレる。しかし神はだからといって約束を反故されない。神は神の主権の中で彼とあなたを祝福される。「私達は不真実でも主は常に真実である」(Ⅱテモテ2:13) 「わたしは初めであり、終わりである」この意味、神は人と違って最後をも知っておられる。 ②あなたによって回りが祝福される(3) あなたの存在そのものが周りの環境への祝福の基だという。神はあなたが受けるだけの人生、世話をされるだけの人生を計画されていない。神はあなたが回りの人々に祝福を与える存在となる事を示しておられる。年老いてもそうなのだ。 【証】二人の退職牧師夫妻が認知症で老人ホーム入居、対照的なお二人… 妻「ありがとう。まあ美味しい。まあきれい」 夫「説教癖直らず、夫たる者○○すべし!」 他を祝福する使命に生きる鍵はあなたの環境の中に支配される愛の神を認めた時から、あなたの環境は目的感に満ちた環境となる。【証】私の交通事故も見方が変わる 「考え」が変わると「感情」が変わる。感情が変わると「行い」も変わる!
Ⅲ.祝福を体験するために必要な事ー神に従うこと 「アブラムは主がお告げになった通りに出かけた」(4) 目に見えない神に従うとは神の御言葉に従う事である。上手にでなくて良い。ただ従う事である。そしてアブラハムは75才で従った(4)。「大いなる国民とする」 神の御言葉には約束と命令の二つがあるが、信仰を強めるには命令以上に約束を何回も見る事である。 |
2013年5月26日 主日礼拝
わたしはあなたの名を呼んだ」イザヤ43章1-4節
|
イザヤ43:1-4 「わたしはあなたの名を呼んだ」 13/5.26 【序】「あなたは自分が産まれた時の事を親に聞いた事があるだろうか?」すると親は「あんたが産まれた時こうだった、ああだった…」と嬉しそうに語る。へその緒まで持ってきてくれる。聞く側も素直に幸せな気分になる。その幸せ気分は、存在そのものに価値があるからだろう。しかし社会に出始めると、やれ肩書きだ、地位だ、成績だ、能力だ…と競争社会に身を投じる。自分を磨くのはいいが、問題は身につけた物だけで価値が決められてしまう事だ。だから中々安んじて生きる事が出来ない。しかしここに、あなたがいつになっても存在そのものに愛と価値を置いて下さるお方がいる。「わたしはあなたの名を呼んだ」(1) ここに安らぎと力の根元がある。
Ⅰ.わたし(神)の存在について 「わたし」=物言わぬ偶像の神ではなく、天地万物を創造し人間を造られた生ける神。求道者からよく聞く質問に「聖書は良い話だが、どうしても先に進まない「神は果たしておられるのか?」がある。 【例証】ローマ1:20によれば、神の存在は被造物(造られた作品)から見いだせる。 私は教会オルガンの作者にあったことも見たことも無いが存在は信じる。オルガン自体がその存在を語っている→「あなたを造りだした方、主!」(1)目の上の眉毛、目、鼻、口…素晴らしいデザイナー!
Ⅱ.「わたしはあなたの名を呼んだ」が語るメッセージ 1.あなたを知っているから呼んでいる 「知っている」とは、あなたの全てを知っているとの意味。どんな境遇でどんな悩み悲しみがあるかも全てを知っている。しかもあなたが神を求める遙か前からあなたのことを知っている。 【例】神の子イエスに一度も会った事がないのに木に登って見ていた心虚しいザアカイにイエスは声を掛ける「ザアカイよ」と。やがてザアカイの人生は一変する! 2.あなたを本当に愛しているから呼んでいる 愛しているときは名前を愛を込めて呼べるが、仲違いすると、途端に名前が呼べなくなる。【例】人類の最初から。アダムとエバの「あの女が…」 しかし主は、私たちがどんなに弱く罪を犯したとしても名前を呼んで愛し、回復させてくださる。「わたしの目にあなたは高価で尊い」(4) 【適用】神に愛されている実感が無いという人に→実感ではなく事実に目を留めるべきである。十字架の事実に示された神の愛(1ヨハネ4:10) 3.あなたでなければ出来ない使命があるから呼んでいる 「ヤコブよ…イスラエルよ」同一人物であるがヤコブは神を知るまでの生来の自分、野心家であり策略家。イスラエルは神によって変えられ用いられた自分。性格は変わらないかも知れないが人生は変わりうるのだ。 【適用】あなたに弱さがあるだろう。それには目的がある。それは嘆くためではなく、別の力と希望を知るため。なぜ愛のない環境が?→神の愛を体験するため。なぜ協力する人がいない環境が?→あなたが人を愛するため。 |
2013年5月19日 主日礼拝
「喜びの回復」ネヘミヤ8章9-12節
|
ネヘミヤ8:9-12 「喜びの回復」 13/5.19 【序】人生には悲しみや苦しみもあるが、神様は私たちを「喜びの生活」へと招いておられる。しかし多くの真面目な人は聖書に従いきれない弱さや挫折のため喜びの生活には至っていないのではないか?どうしたら「喜びの生活」が現実になるか、ぜひ知って頂きたい。
Ⅰ.民が説教を聞いて泣いた理由 バビロンから帰国後、神殿や町再建に着手完成し「聖書を聞こう」となり、学者エズラの説教を聞く。その時、民は「泣いた」(9) なぜ泣いたか。 帰国後70年ぶりに聖書を聞ける嬉し涙?しかしもし嬉し涙なら止める必要はなかった。この涙は、悲しみと悔いの涙であった。というのは律法(9)を聞き、いかに自分たちが神の基準から離れた生活をしてきたかを知って情けなさにポロポロと泣けてきたのであった。
2.なぜネヘミヤは「泣いてはいけない」と語ったのか 聖書の基準から離れている現実を知って涙するのは、素晴らしい事でもあるが、ネヘミヤは「泣いてはいけない」(9)と言う。その理由は「今日(7月の贖罪の祭)は聖別された日」(10)つまり神の「聖」が民に強く示される日であるから、「主を喜ぼう」(10)と奨める。この意味が不明で長い間悩んできた私… 【証】高三生で信仰をもったが喜びもつかの間、罪と弱さに失望し今度こそと頑張るが又失敗。「我聖なれば汝らも聖なるべし」でとどめを刺される落ち込み!
3.神が「聖」を民に示される意図を知る 神が御自身の「聖」を民に示される時、決して民が立ち上がれない程、罪深く汚れている事を示すためではない。民も又神御自身の「聖」に預かることができるという希望を示すためである。だから「喜んでほしい」「美味しい料理を食べて、神の御心を喜んでほしい」(10) 【証】禁欲的教会に育った私… 【適用】神が「愛」を私たちに示される時、私たちを愛されることだけを示されるのではなく、愛のない私たちも又神の愛に預かることができるという希望のため。神が「力」を示される時、私たちも又神の力に預かり力強い命を受けることができるという希望のため。この神の意図を知って神御自身喜んでほしい。 【結び】今年も厳しい年を送るのかも知れないが、霊的には主ご自身を喜ぶ最高の生き方をしたいものだ。主があなたのために成し遂げて下さった十字架を喜ぶことから喜びの原点がある。そのとき必要な物までもプレゼントされるだろう。ソロモンのように御旨に叶う願いをした時、願わなかった物までも与えられた様に! |
2013年5月12日 主日礼拝
「どうしたら信仰が強くなるか」ルカ17章5、6節
|
ルカ17:5,6 「どうしたら信仰が強くなるか」 13/.5.12 【序】よく尋ねられるのは「どうしたら信仰が強くなりますか?」求道者の方も「何か問題があるとすぐ心がフラフラする。どうしたら動揺しない生き方ができるか?」 多くのクリスチャンは神を強―く信じる事が信仰が強くなる事だと考えるのだが、実は、そうではないのである。それについてメッセージをしたい。
Ⅰ.信仰に関する弟子達とキリストとの違い 結論から言うと信仰を強くする道は、根本的に「視点を変える事」なのである。 弟子達は「信仰を増してください」とキリストに願ったが、キリストはそれに対して、全然違う事を言われた。「からし種(極小の粉末大)ほどの信仰があれば、桑の木に「根こそぎ海の中に植われ」と言えばいい付け通りになる」(不可能と思える問題も解決する比喩)つまりたとえからし種ほどの小さい信仰でも、根本的に視点が変われば、大きな問題をも動かす生き方が生まれる、と教えられた。神を信じる思いが強―くなっていくことによって信仰が強まるのではないのだ。むしろ、同じ事を見ても「視点」が変われば、問題に支配されずフラフラもせず、生き方も結論も変わってくるから不思議だ。以下の幾つかの箇所から、視点が変えられていき、問題の解決や勝利のあり方を見ることにしよう。
Ⅱ.聖書に見る視点の違い 1.苦難に関する視点の違い 創世記45:4-8 「売った」(4)(被害者としての視点)→「遣わした」(8)(使命感的視点) 「あなたがた」→「神」。神に結びつくと視点が変えられていき、自分の傷の癒しという大きな問題をも動かす事ができるのである。 2.成功に関する視点の違い 箴言10:22 「人の苦労」→「主の祝福」 富ませるのは自分の努力と考える視点だったのが、神の祝福が自分を富ませるのだという視点に謙虚に変わる。努力しても報われない時が多い。 3.持てるものに関する視点の違い 使徒3:6 「無いもの」を数え上げている視点から→「有るもの」特にキリストを持っているという素晴らしさの視点に変えられ、生き生き人生と力の体験!に導かれる。 4.病や弱さに関する視点の違い Ⅱコリント12:7-9「肉体のトゲ」 「高ぶる事のないようにというサタンの使い」→「弱さの中で神の力の体験」それまでは肉体的癒しを願う視点でしか願ってこなかったものが、そのトゲは神の力の体験の材料だったのだという視点に変わっている。 |
2013年5月5日 主日礼拝
「気にしなくてよい」ヨハネ21:18-22
礼拝説教を聞く。
|
ヨハネ21:18-22 「気にしなくてよい」 13/.5.5 【序】昨年の6月から始めたヨハネ伝説教も、今日が最終説教。私としては大事な友人と別れるような気持ち。その最後の箇所は、罪と弱さで悩んできたペテロがキリストに赦され再び立ち上がって使命に生かされる。そしてこれからの人生どう生きていくかを語られる。私たちもこれからの人生をどう生きるかという共通の課題を持っている。ともにキリストの言葉に耳を傾けたい。 主がペテロに語られたのは「二つのことを気にしなくてよい」と語られた。
Ⅰ.気にしなくてよい事―「将来の不安」 全てを見通しておられるキリストはペテロの晩年に「不自由」(18)と苦難を経験することを告げられた。それを言われたら誰もが躊躇する。しかし主に従う上で将来を気にしなくていい理由を言われた。「どのような死に方をして、神の栄光を表すか」(19) 成功ばかりが神の栄光の現れではなく、一番不幸と思われる死や苦難でさえ神の栄光―神の素晴らしさを体験するー現れになるからだ。 私たちも自分の将来どうなるか不安である。健康や孤独。しかし取り越し苦労も多いのだ。心配事の的中率は1%と言われている!(99%の心配は起こらないことで悩む) 苦難でさえ神の素晴らしさを体験できる機会になるのだ。全てを見通すキリストがそう言われることを信じよう。 Ⅱ.気にしなくてよい事ー「他人のこと」(21,22) ペテロは友人のヨハネのことが気になった。(21) しかし主は「それがあなたに何の関わりがあるか」(22)と言われた。 人は家族や友人との関わりを持ち、励まされて生きていくものである。それは良い事だ。しかしここで強調されている事は、主に従うという事においては、誰かが一緒に従ってくれるなら私も主に従うという事であってはいけない、という事だ。人のことは自分が気にすることではなく、主に委ねることなのだ。主が全責任を取って導かれるように、主はあなたの関わりの深い人々のことも全責任をもって導かれるからだ。主への決断においては夫も妻も親も子もそれぞれ主に委ねて決断するべきなのだ。 Ⅲ.最も良きことー「わたしに従いなさい」(19,22) 50年間の信仰を振り返り、また40年程の牧師としての生活で様々な人生を見てきた者としての実感は、キリストに従う人生こそ最も安全で確かで死にさえ打ち勝つ人生であるという事だ。信仰は失敗しないで生きることではない。ただ「従う事」なのだ。ペテロのように失敗しても良いのだ。しかし立たせてくださるキリストに従うこと、これが最も良きこと。信仰を持つこと素晴らしいこと、しかし信仰を最後まで持ち続けることは更に素晴らしい事である! 私としてはここにいる全教会員を最後までお世話し全員を天国に送りたい!
|
2013年4月28日 主日礼拝
「大丈夫!の福音」ローマ8章28節
|
ローマ8:28 「大丈夫!の福音」 13/4,28 【序】38年の牧会人生で「福音」を伝えて来たが、この福音に形容詞を付けるとしたら「大丈夫!の福音」だ。それが実感。多くの方を作り変えてきた希望の福音の祝福をお伝えしたい。 なぜ大丈夫と言いうるか→「神が全ての事を働かせて益として下さる事を私達は知っています」(ローマ8:28)神は「全ての事を働かせて益に」して下さる福音に招いてくださるからだ。ではどのような福音なのか? Ⅰ.自分と環境に深い価値を与える福音 幸せな人とは自分と環境を受け入れる事ができる人だが、そうでない事も多い。賀川豊彦も母から「あんたは父さんが外で生ませた妾の子」と言われで苦悩が始まった。私の従兄弟も「なぜ頼みもしないのにボクを生んだ!」と親に毒つき不登校。親も不憫に思う。どちらも気の毒。しかしどちらも大切な真理を見落としているのだ。それは「命」は誰によって発生したかという事だ。決して親の「お間違い」で生まれたのではなく、親の遺伝が決定的なのでもない。聖書は語る。親も生まれていない中でのあなたの誕生計画があったのだ(エペソ1:4)更に「あなたは「神の作品」(エペソ2:10)だと!神はあなたに大きな価値と使命を与えられる。
Ⅱ.過去の傷を癒す福音 誰にも過去に何らかの傷がある。人の言葉、態度に傷を受ける。しかしここに 素晴らしい福音がある。福音は過去を変えることができるという事だ。過去の 出来事は変わらないが、意味が変わるからだ。ヨセフもそう語る→創世記45:5! 過去の傷に捕らえられると視線も過去。しかし意味が変わると未来に目が向く。
Ⅲ.将来の不安を取り除く福音 自分の将来に明るい未来が描けないと感じている人は多い。ある集会で「神様があなたの未来を見せてあげよう」と言われたら見たいか?と質問したところ、殆どの人が「見たくない」「なぜ見たくないか」「良い事だったらいいが、悪い事があるなら見たくない」そうだろう。しかしここに素晴らしい聖書の希望がある。Ⅰコリント10:13!耐えられない試練はないのだ。 【証】上記の御言葉で救いと平安を得た人の証…
Ⅳ.健康と死の恐れに勝つ福音 健康の不安は強烈。その先に敗北しかない死があると思うからだ。様々な人が死の不安を語ってきたが、この福音は死に打ち勝つ希望を提供することができる。それは妄想でもなく、上手く考えた作り話でもない。キリストの復活という事実の上に成り立ち、弟子達の殉教と、2千年の信者の証言から裏打ちされた永遠の希望なのである。キリストこそ死に打ち勝ち永遠の命を与えて下さるお方 ヨハネ6:39,40! 福音を受け入れませんか?
|
2013年4月21日 メモリアル礼拝
「泉の湧く生涯」詩篇84篇5-7節
礼拝説教を聞く。賛美:慈しみ深き209バイオリン(13.04.21)を聴く
詩篇84:5―7 「泉の湧く生涯」 13/4.21 【序】私も60歳を過ぎた頃から気になりだした事に若者の言葉遣いがある。例:(初対面なのに)「僕って四国出身じゃないですか」(知らん)、「この食事やばくない?」(食あたり?)、(レストランで)「ご注文の方お聞きしていいですか」(他に聞く事ある?)今なお非常に違和感がある。しかし聖書読む時、違和感どころか魂の深い慰めと希望を感じる。今日はメモリアル礼拝。遺族の方はかつて愛する者を失うという悲しみを体験された。今後もまたあり得る。どう乗り越えていけばいいのか。今後のことも併せて考えたい。 Ⅰ.悲しみは泉の湧く生涯への招き 詩篇84:6「涙の谷を通るとも、そこを泉の湧くところとします」 人は人生で悲しみを経験するが、神の計画は悲しみが癒されるだけではなく、悲しみを通して周りの人に「泉」が湧き上がるような生涯へと導かれる事だ。 つまり涙の経験はあなたが周りの人に泉が提供できるような人生への神の招きである、という悲しみの意味を教えている。 【適用】多くの人は人生の苦難や悲しみを経験し「なぜ自分が?」と悩む。ある人は「自分は不幸の星に生まれついた」と不運を嘆き、またある人は幸福な人を妬み、また家族に当たり散らす。しかし聖書は、そうではないと教え、あなたが涙の谷を通った訳は、「悲しみの谷」を通った人にしか与えられない祝福=そこを泉の湧く所とし、あなたを通して神があなたの多くの周りの人に泉を湧かせて潤いを与えることができる生涯を提供する招きなのだ。
Ⅱ.泉が湧く生涯とはどういう生き方か 分かりやすい表現で言えば、「泉が湧く生涯」=あなたが周りの人に優しい人間になっていくという事。優しさは回りに潤いと幸福をもたらす。 ○ある病院の人気のある看護士さんと人気のない看護士さんの違い… 患者「昨夜眠れなかったんですよ」 人気のない看護士→「睡眠剤を頼んでおきますから」 人気のある看護士→「そうですか、それは辛かったですね」 共感し気持ちを分かってあげる人とそうでない人の違い! ○『親愛なる子供達へ』(2009「日本レコード大賞優秀作品賞)… 「老人に優しい国は栄える」→エペソ6:2,3「父母を敬え→幸せになる」
Ⅲ.泉を湧かせる人になる秘訣 「その力があなた(神)にありその心がシオンへの大路にある人」(5) シオン=エルサレム神殿があった丘=神を信じ神と共に歩む時、悲しみを越えて泉を湧かせる生涯が始まる。 【証】不幸な少女時代を送り孤独な日々の中、神を知り、神を信じて生きる中に一人の少女に泉を湧き上がらせた「20世紀の奇跡」と言われる証… |
2013年4月14日 主日礼拝
「もう一度立ち上がれる」ヨハネ21章15-17節
ヨハネ21:15-17 「もう一度立ち上がれる」 13.4.14 【序】誰でも過去に失意経験があるだろう。「あれさえなければ…」と悔やむのである。世では「覆水盆に返らず」と諦めるしかない。しかし全能の神は時間と空間を越えたお方。過去の失敗さえ新たな展開へと導かれる…キリストを裏切り、取り返しがつかない失態を演じたペテロであるが、主は彼をもう一度立ち上がらせ、新たな使命に生かされる。それは私たちへの希望でもある。このテキストが語る事は:
Ⅰ.キリストは挫折した者を見捨てない ペテロは元の漁師に戻ろうとする程(21:3)落ち込んでいた。自分のふがいなさ、主への申し訳なさ、更には希望の未来さえ失っていた。しかしここに大きな励ましがある。それはペテロが立ち上がろうとする意志や願望の前にキリストが挫折した者を立ち上がらせようとする意志が先行している事だ。→「イエスはペテロに言われた」(15)―主の語りかけ! だから必要な事は自分に鞭打って「もうひと踏ん張りするぞ」と自分を叱咤激励する事ではない。大切な事は、失敗や挫折の中にある者に目を留め、再び立ち上がらせて下さるお方の声を聞くことである。 【適用】キリストは御自分を裏切った当のペテロをさえ回復させようと働かれる程のお方である。あなたの過去に罪や挫折があるとしても神はあなたを立ち上がらせようと御声を掛けて下さるのである。
Ⅱ.罪や挫折があっても使命は変わらない ペテロは主から責められる事を想定したかもしれないが、事実は違った。彼に「羊を養う」という元々の使命の回復へ導かれた。3年前に初めて漁師としてキリストに出会った時に語られた「あなたを魚ではなく人間を採る漁師にする」使命の回復である。神という方は人に命を与えられた時、その人にしかできない使命を計画された。そしてその使命は罪や挫折で失われてしまうものではない。→「神の賜物と召命とは変わる事がありません」(ローマ11:29) 神はあなたの罪や挫折の為に祝福の使命の扉を閉じる事をされないお方!
Ⅲ.使命を果たす動機は神への愛であるべきだ キリストはペテロに使命を与える前に、使命を果たす動機を確認される。 「あなたはわたしを愛しますか」(15,16,17) ペテロは以前、人間的な情熱でキリストに従おうとしていたが挫折した。情熱はいつか失われる。キリストはその動機を神への愛にあるべき事を教えられた。私たちも神への奉仕や良き業も、動機は神への愛や感謝であるべきなのだ。 【適用】あなたが伝道、奉仕、愛の業を教会や家庭において行う動機は何だろうか?「○○さんが困っているから、△△さんを喜ばせたいから…」もし悪い反応ならしないのだろうか?動機は対人ではなく対主であるべきだ→「何事も人に対してではなく主に対するようにしなさい」(コロサイ3:23) |
2013年4月7日 主日礼拝
「古い生き方に戻るな」ヨハネ21章1-14節
礼拝説教を聞く。
ヨハネ21:1-14 「古い生き方に戻るな」 13/4.7 【序】明治時代の「文学界」には多くの洗礼を受けた作家がいた(90%もいたとの事)島崎藤村、国木田独歩、樋口一葉、正宗白鳥…しかし作品が売れるようになると後に離れる。神の恵を経験した筈なのに残念でならない…。しかしペテロもまたそうしようとしていた。なぜなのか?そして主はどう顧みてくださったのか? Ⅰ.ペテロの問題は何だったのか ペテロは「私(特に強調する言葉)は漁に行く」(3)と語る。これは、自分は元の漁師に戻るとの意味である。彼は主から「魚でなく人をとる漁師」へと召された筈なのに元の生活に戻ろうとしている。キリストの復活の奇跡を二度も見たのに、こういうことが起こる。 【適用】人間というのは、聖書の話を聞きその通りと思っても、古い生き方のまま考え生きる、或いは救いや奇跡を経験しても元の古い生き方に戻ってしまう。こういう迷い、回帰現象の誘惑があることは覚えておかねばならない。 Ⅱ.なぜ古い元の生き方に戻ろうとするのか 今までも復活の主を見ても、ペテロの心は晴れない。なぜ?それは彼の心に深く失望と恥を感じさせた「三度も主を裏切った」という未解決の問題があるという事と深く関係している様に思われる。未解決の問題があると心は晴れない。主に対して犯した罪であるから主の処に行けばいいのだが、それを自ら身を引こうとする、申し訳なさで恥ずかしくて出れないのか…いずれにしても人には、未解決の問題を持ったままで本来行くべき処を離れて身を引いてしまう、元の生活に戻ろうとする弱さがある事を覚えておくべきだ。 【適用】誰も全ての問題が解決済みという人はいないだろう。何らかの未解決の問題があるだろう。その時の解決の仕方を身を引くとか、元の古い生き方に戻る事で帳消しにしてはならない。解決にならないのだ。最も行くべき処は、その問題を知り解決へと導かれる主の元に行くべきである。それが自分の恥や弱さや罪に起因しているとしても。
Ⅲ.深い慰め この聖書から学ぶ大きな慰めと励ましは、身を引こうとしているペテロのためにキリストが自ら出会おうとして現れて下さった事である(1)。今回は復活信仰を与える為ではなく、心の癒しを与えるためである。その取り扱いに実に細心の心遣いが見られる。いきなり心の傷について語るのではなく、身を引くあり方の不毛さと主に従う豊かさの差を彼の元の生活漁体験で示される→「古い生き方と、主に従う生き方」の違い!→主から離れようとして自ら漁に出て網を打ったが不漁(3)、それに対して主の言葉に従って網を打った時の大漁(5)! 【結び】生活が不安で、或いは主に罪を犯したという意識から身を引こうとする誘惑にある方よ、主のもとに帰ろう!主の御言葉に従おう!それこそ豊かな回復の道である。 |
2013年3月31日 イースター礼拝
「信じる者になりなさい」ヨハネ20章24-29節
ヨハネ20:24-29 「信じる者になりなさい」 13/3.31
【序】私はクリスチャンになるまで「死んだら終わり」しかなかったけれど、クリスチャンになってからは「死んでも生きる」道がわかり、大きな喜びを体験する日々が始まった。キリストの復活の故である。でも何が信じられないと言って「復活」程信じ難いものはないかも知れない。今日出てくるトマスという弟子もそうだった。そんな彼も遂にキリストに「我が神、我が主よ」と告白するに至る。彼は何が分かってそう信じたのか。今日にも適用される事である。
Ⅰ.キリストは復活された神である
他の弟子達から主が復活したという事を聞いてもトマスには受け入れられない。
「空想物語ではあるまいし、そんなばかげたことを信じるなんて、亡霊でも見たのではないか…」トマスの言葉「私は…見なければ決して信じない」(25)は正に現代人の復活に対する思いを代弁している。しかし主はトマスに復活の身体を見せ「あなたの指をここに付けてわたしの手を見なさい。信じない者にならないで信じる者になりなさい」(27)と言われた。確かに死んだ人が甦るのを信じ切れない思いが人にはある。だからある人は、復活を精神的な復活、象徴的な「神話」だと解釈しようとする。しかしその後の歴史はキリストの復活を否定できないのだ。
①弟子達の殉教―もしキリストの復活が作り話なら、それを命を捨ててまで伝えた弟子達の殉教は
説明がつかない。②2千年のキリスト教の世界的拡がりー嘘ならどこかで暴かれ抹殺されていた筈。③十戒を変えてでも日曜日の礼拝。④世界中の信仰者の臨終の平安!
Ⅱ.キリストは孤独と悩みに答えて下さる神である
トマスが復活を信じられなかった理由は科学的理由だけではなかった。なぜ主は自分が居ない場所で復活の体を他の弟子に見せられたのか=孤独、仲間外れ。これが悩み!しかしトマスはペテロ同様覚えられていた。「八日後」(26)に個人的にトマスに現れて下さった。疑い深いトマスにはこの方が遙かに嬉しかったであろう。彼には八日間は長かったが、その分だけ確信に繋がった!
【適用】人は自分だけ神に無視されているように錯覚する時がある。そうではないのだ。神にはあなたは覚えられており、神の時がちゃんと備えられているのだ。信じよう!
Ⅲ.キリストは生きる力としての信仰に導く神である
人は事を進めるとき何らかの力を必要とする。御飯だけ食べてればいいというのではない。精神的力を必要とするのだ。試練、病、困難…そんな時、事を見ずとも未解決でも進まねばならない。何を力とするか?
【例】乙武洋匡さんの新刊「自分を愛する力」の中で「生き辛さを覚える方が多いが、自分のように身体に障害があっても、明るく楽しく生きて来れたのは「自己肯定感」にあるように思う。大丈夫!という思いだ。人間は人格を持っているから人格を持っている方から、すばらしい方からの言葉を必要としている。
【証】浅見和子姉の手術前の訪問でイザヤ41:10を読んで祈る。…その日のブログで「牧師御夫妻来宅、イザヤ41:10の御言葉を読んでくださった。「ウン。これで安心。大丈夫」と。
「事を見ないでも聖書を信じて生きていくこと」(29)が力になるのだ。
※トマスは、その後インドに渡り宣教、殉教。インド最初の教会を創設。聖トマス教会
2013年3月24日 主日礼拝
「どんな人にもチャンスはある」ルカ23章39節-43節
| 【序】アメリカンジョーク「天国に野球はあるか?」聖書は天国が実在すると語るが、果たして自分は救われるのか、大丈夫だろうか。救いのチャンスは誰にでも与えられている。希望のメッセージを語りたい。
Ⅰ.イエスは神の子か? 多くの人はイエスを聖人とか偉大な宗教家と考える。これは2000年前も現代でも同じ。イエスの左右で十字架につけられた強盗たちも、当初はイエスを神の子だと信じていなかった。○私が中高生の時もそうだった。ところが一方の強盗はイエスに対する見方を途中で改める。イエスが祈られた祈りを、彼は聞いたのだろう。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているのかわからないのです」(23:34)彼はイエスを神と認めた。「痛みと苦しみの極致にありながら、人々の嘲りと侮辱の中で、なぜこのような祈りができるのだろう。この方は本当に神の子ではないだろうか?」一言も罵り返さず、黙ってじっと耐えておられる姿には、聖なる恐れさえ感じさせられる。【適用】やられたらやり返す私たちにとって、敵を赦すことは奇跡を行う程、難しい。いつまでも人を妬み続ける心を、自分の力で変えることはできない。イエスは強盗の心を変え、2000年の歴史の中で多くの人々を造り変えてこられた。○私をも全く変えられたイエスは、間違いなく神の子である。 Ⅱ.私は神の前にどのような存在か? 神はあなたを深く愛され、神の目に価値のある存在である。今月は”自殺防止月間”だが、自殺をしてしまう人は、「自分には価値がない。誰も私を顧みてくれない」と思い悩んでいる人が多いのではないだろうか。主は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語っておられる(イザヤ43:4) 【例】「ムンクの叫び」は96億円で落札された。あなたはこの絵画以上に価値のあるユニークな存在である。 悔い改めた強盗は、自分の罪を深く自覚し、「人はそれぞれ自分がした行いの報いを受ける」と知っていた。 【適用】すべての人は”罪人”であり(ローマ3:23)、そのままで救われて天国に行くことができる人はいない。例え、強盗の様な悪い事をしていなくても、生まれながらの私たちは、造り主である神に背を向け、自らを神とする自己中心的な人生を送っている(原罪)。イエスが来られたのは、私たちを断罪するためでなく、本来、私たちが受けるべき刑罰を十字架の上で身代わりに受け、私たちを救い、永遠の命を与えるためである。 Ⅲ.イエスは誰の救い主か? 死を目前に控えた強盗は、人生最後の最後になってイエスに憐れみを乞う。「私を思い出してください」(42)イエスははっきりと彼に救いを約束なさった。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(43)ほとんど良い事を何もしてこなかった強盗だが、死の間際に確かな救いを得た!「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:10)永遠の命を得るために必要なことは努力や善行ではなく、イエスを信じる信仰によって救われるという”恵み”を受け取るだけである。 【適用】あなたの人生において、救われるのに「遅すぎる」ということはない。救いのチャンスは、生かされている限り、最後の最後まで与えられている。また、イエスにとって”赦すことができない程の大きな罪”は存在しない。あなたがどのような罪を犯してきたとしても、イエスの血潮はあなたをきよめ、赦すことができる! |
2013年3月17日 主日礼拝
「閉ざされた心にも」ヨハネ20章19節-20節
| 【序】人間、素直になれればいいのだが、時にそうなれないことがある。相手に問題があると思いがちだが、よくよく心を覗いてみると「自分の心が先ず閉じている」のだ。…主の弟子達も心を閉じていた。それを開けて喜びへと変えてくださるお方がいる。
Ⅰ.何が心の戸を閉じさせていたか 主イエスの死後三日目、弟子達は戸に鍵をかけて閉めていた。これは家の戸だけではなく、心の戸をも閉じていたのだ。何が心の戸を閉じさせていたか。 ①将来の恐れ-自分達も主と同じ刑に処せられる?という恐れ(19)。 ②自分の挫折-ここ一番という時、主に従いきれなかった自らの失望感。 ③神への不信-主は生前復活を語っていたが死で終わり、騙された?不信感 弟子達は空の墓に行き主の布切れも見たが復活に結びつかない(20:7-9)。 【適用】人は将来の恐れや過去の悲しみやトラウマ、聖書の確かな復活証言を聞いても信仰に結びつかない時がある。あなたもそうかもしれない。この時自分はとんでもない所にいるのではないかという不安が生じ恐れてしまう。 Ⅱ.何が心の戸を開かせるのか 主の復活後の第一声 「平安があなたがたにあるように」(19)ここから解る事は: 1.罪を包む大きな愛 あなたは誰かを怒らすような酷い事をした事があるだろうか。すると、その人に会うのが怖くてまともに顔を見れないだろう。弟子達は正にそういう事を主にしたのである。しかし主は少しの責めもされない。弟子達の裏切りを知っていて罪を大きな平安で包んで下さった。これが心を開かせる第一の愛。 2.「恐れ」(19)を越える平安 弟子達は、これからどう生きていけばいいのか不安と恐れで一杯だった。しかし弟子達が一言も語らないのに主は彼らの恐れをご存じで平安を下さった。 【適用】あなたは、将来が心配で一杯かもしれない。誰にも言えないかもしれない。しかし恐れる事はないのだ、復活の主があなたの心配、恐れを既に知って恐れに変えて平安を下さる。 3.不信から確信に変える喜び 「イエスはその手と脇腹と彼らに示された…弟子達は主を見て喜んだ」(20) 弟子達は主に従ってきたが十字架の死で終わったと思えば、失望感と不信感で一杯だった。しかし主は復活の身体を見せられた。それは、人類最大の不安と恐れである死でさえも勝利したお方である事の宣言である。弟子達は「キリストに従ってきた人生に間違いはなかった。大丈夫」との確信を与えられた。彼らの喜びはこの確信から来ている。人生に不安があると喜べないが、自分の選択に間違いはなかったとの確信に立てれば喜びが出る!心を開こう! 【証】「聖書と私」(三浦綾子)… |
2013年3月10日 主日礼拝
「思い切って」ヨハネ19章38節-42節
| 【序】ある母親が3才になる子供に「ありがとう」と言う事を躾ているが、練習では上手く行ってもここぞという時には上手く行かない。ある時子供を連れて電車に乗った。隣におばさんが座り、息子に「ミカンあげよう」と言ってくれた。母親は「この時!」と思い「こんな時何と言うの?!と迫った。子供はおばさんの方を向いて「おばちゃん、皮剥いて!」?? 中々ここぞという時に上手く行かない。…今日の人物は「ここぞ」という時に見事な信仰の告白をしたアリマタヤのヨセフとニコデモである。ここから神の御心をお伝えしたい。
Ⅰ.二人に見る信仰の勇気 十字架で亡くなられた主の遺体を引き取ったのは弟子達ではなかった。弟子達は恐怖のため逃げ去っていたのだ。そんな中でキリストの遺体埋葬を願い出たのがアリマタヤのヨセフ(38)―有力な議員(マルコ15:43)とニコデモ(39)―パリサイ派の有力者―であった。二人は高い地位を失う不安の中で、信仰の立場を言い現した。マルコ15:43では「思い切って」とある。同じ社会的地位の高いピラトーキリスト裁判で群衆を恐れて地位保全のために信念に反する判決を下したーと比較すると立派な態度であった。しかし憶えたい事は初めから勇気ある信仰を持っていたのではなかった。アリマタヤのヨセフは「イエスの弟子ではあったが、ユダヤ人を恐れてその事を隠していた」(38)し、ニコデモも「前に夜イエスの所に来た」(39)(昼なら指導的律法学者の立場があり知られる事を恐れた) 【適用】弱い者が強められる。これは励まし!初めから強い者はいない。しかし、どんな人にも強められる希望がある! Ⅱ.二人を強くさせたもの 聖書は答を具体的に書いていない。唯言える事は彼等が最後まで十字架から離れなかった事だ!弟子達が十字架から離れたのは恐れからであったが、同じ様にこの二人も恐れがあったが、最期までキリストの十字架に留まった。それが人間の罪のために死んでまで救いの道を開いて下さる神の愛を理解させ感動させ、強められていったと思われる。→十字架から離れない事だ。 【証】北海道の暴風雪で少女は父の胸で助かった…愛の犠牲を示した父の姿に感動→主の死の愛に感動! Ⅲ.二人から知る慰め 二人はキリストが生きておられる間に告白できれば良かったかもしれない。残念と言えばそうなのだが、これは慰めでもある。生きている間だけが神の業が起こるのではないという事だ。 |
2013年3月3日 主日礼拝
「家庭の回復」ヨハネ19章25節-27節
礼拝説教を聞く。
| 【序】多くの方と接してきて、現代には三つの回復が必要と痛感する。①自分の回復(自分自身を生ききる為に)②人生の回復(過去の傷や世の中での挫折の回復)③家庭の回復。箴言17:1「…」とあるが、家庭の回復を願う人は多い。今日は「家庭の回復」について、母マリヤに語られたキリストの言葉からメッセージしたい。
Ⅰ.主イエスの母マリヤへの思いやり 老いて独り身になるマリヤの寂しさと、「息子」を自分よりも先に失う悲しみに沈む母を気遣い、弟子ヨハネに母を託す主イエス(26,27)(気も狂わんばかりの痛み苦しみの中で!) ○一休和尚の書いた屏風…「爺死ね。婆死ね。父死ね。母死ね」 依頼者が激怒「縁起でもない!」→一休「この順番で死ぬのが最善じゃ」と。 ○介護百人一首の歌―赤柴広子さん、37才の息子膵臓癌で… 「お母さんごめんねと我に詫びし息子(こ)の告知直後の言葉忘れず」 人生ままならぬ。あなたもその経験をされ長く癒し難い思いをお持ちなら、同じ経験をされたキリストの所に行きなさい。主はその悲しみを理解して下さる。 Ⅱ.親に対する子の務め マリヤの行く末を気遣うキリストの言葉が十字架上の「七言」の一つとして記録されている意義を考える時、十字架の意味がわかった者は親孝行に生きるべき事を示される。 【証】日本の文明開化の立役者、勝海舟と福沢諭吉との会話が残っている。福沢が尋ねる「キリスト教は孝道を重んじるか?」勝「キリスト教が孝道を重んじるかどうかは知らないが、隣に宣教師家族が住んでいるが、親と子の姿を見ると、それは日本の家庭では到底及ばない情愛ぶりである。それを知ればキリスト教は孝道を重んじるのであろう」と答えたという。果たして現代のクリスチャン家庭はどうだろう?日本の家庭はどうだろう? →親孝行に生きるべき事を教える御言葉: ・愚かな者はその母をさげすむ(箴言15:20) ・親の恩に報いる習慣を身につけさせよ。それが神に喜ばれる事である」(Ⅰテモテ5:4) ・自分の家族を顧みない人は信仰を捨てているのであって不信者よりも悪い(Ⅰテモテ5:8) ・あなたの父と母を敬え。これは約束を伴ったもの…そうしたらあなたは幸せになり長生きできる という約束です」(エペソ6:1)…※親孝行は神の御心に叶う神への芳しい奉仕である。 Ⅲ.親(母)への勧め 「女の方」(26)主イエスはマリヤを「母」と呼ばれなかった。主イエスは母マリヤを愛しておられたが、ここに母子の間に質的転換が起こっている。恩も情もない関係ではなく、母子ではあってもそれぞれが神に信頼して主体的に生きていける人間になることー両者の間に神を置ける絆―が大切なのだ。 【適用】「母」よ。子供は自分のお腹を痛めて産んだ子。父よりも絆は濃いかもしれない。それだけに「子離れ」でき難いだろう。しかし「我が子」ではあっても「我がもの」ではない。主のものである事を心に刻もう。そしてあなたがいなくなっても子が主に信頼して歩めるよう祈っていこう。あなたの子への最終的願いは何だろう? |
2013年2月24日 主日礼拝
「有能な人よりも有益な人に」使徒7章20節-35節
礼拝説教を聞く。
| 【序】現代は厳しい不況の時代だが、映画界では「不況の時の『十戒』頼み」という表現があるそうだ。映画館に人が集まらない時に、あのモーセの「十戒」を上映すると、何とか採算が合うという話…今日の話は、そのモーセの事。名前がモーセだけに何か「申せ」と言いたくなるが、実際の彼の人生は波瀾万丈。有能であった人が全く無能になり、後に有益になる。あなたも世で活躍したいと思い、その為に能力を磨きたいと思うだろう。それは悪い事ではないが、神が用いられる人は、有能な人ではなく有益な人である。
Ⅰ.有能な人であったが成功せず モーセはユダヤ人なのに不思議な運命でエジプトの王子として育てられた(21)モーセが40才の時、王宮の外で見たものは、同胞の民が奴隷としてエジプト人に苦しめられ虐待されている有様。ついにユダヤ人解放のため事を始める。40才の時の彼は「あらゆる学問を教え込まれ言葉にも業にも力があった」(22)「有能な人」であったが全くその試みは失敗。更に人殺しまでして逃亡者になり、荒野に逃げて羊飼いとして身を潜めるに至る。挫折感、無力感、失望感、毎日見るものは羊と荒れ野の砂嵐。それが40年間! Ⅱ.有益な人として用いられる もうここまでかと思った時、神はそのモーセを召される。(30)「私はあなたをエジプトに遣わして民を解放する為に用いる」何という事か!その時のモーセは権力もなければ地位も富も言葉さえ自由な話し方が出来ない。その召しに対して無能だと尻込みした。「もう私は舌が上顎についている程話す力もありません」と。しかし神様は能力に著しく欠けがあるモーセをエジプトにいる民の解放者としてお用いになったのだ。モーセ80才の時の事。その後の活躍は映画の「十戒」通り。聖書でステパノは使徒7:25,30でこう語る。 40才の有能な時→「自分の手によって」(25) 80才の有能でない時→「御使いの手によって」 この違いは大きい! 大切なのは自分が「有能」かどうかではなく「有益」かどうかなのだ。そして有益な人 Ⅲ.不遇の時も大きな意味がある モーセがエジプトから逃げ延びて、虚しさと無力に打ちひしがれていた荒野の40年間は意味もなく、不遇、不毛と思われたが、すばらしい意味をもたらす事になる。なぜならイスラエルの民をエジプトから解放し、約束の地カナンに行くまで40年間も荒野の旅をしなければならなかったが、先の40年間の荒野の生活が役立ったからである。荒野の生活を知るモーセでなければ、どうして指導者として導けるだろうか。荒野の40年間は次の有益な人生のステージにどうしてもなくてはならない経験だった。 【適用】今失意であっても病であっても、今のあなたがあなたの人生の全てではない。それはやがて後に神に用いられる有益な人生のために無くてはならない経験なのだ。 「わたしのしている事は今はあなたには分からないが、後で分かるようになる」(ヨハネ13:7) |
2013年2月17日 主日礼拝
「大いなる出会い」ヨハネ19章1節-16節
| 【序】あなたはどんな人に会ってみたいと思うか?生涯忘れ得ぬ印象を与えるような人物に会えたら、どんなに素晴らしいことか…。徳川幕府安政年間の軍指令官の村田若狭守はふとした事で中国語の聖書を手に入れプロテスタントで二番目の侍信者になる。告白して言う「私はこれまでキリストの様な人物を見た事も、聞いた事も、想像した事もありません。驚嘆の余り私の心は、彼の品性と事業にすっかり虜になりました」。キリストの活動範囲は四国の半分くらい、活動期間は3年半。しかし彼ほど世界史の流れを大きく変え、彼ほど多くの人の人生を作り変えてきた方はいない。…今日出てくるポンテオ・ピラトAD26-36までローマ総督としてエルサレムで勤めたがキリストの裁判官という不思議な出会いを経験する。それは彼の運命を左右する出会いであった。
Ⅰ.ピラトがキリストについて感じたこと 1.高潔な人格と静かな権威に恐れさえ感じた 2.罪がない事が明確に分かった。二度までも宣言している(4,6) Ⅱ.なぜピラトはキリストを民衆に引き渡したのか 「この人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません…カイザルに背くのです。この言葉を聞いた時、(ピラトは)イエスを外に引き出した」(12,13) なぜか→「群衆に機嫌を取ろうと思ったからである」(マルコ15:15)彼はイエスが無罪であると判断し、この方こそ神の御子かもしれないと畏れたのに、将来の打算と臆病の為に良心に反した。結局、彼は真実よりも自分の出世を選んだ。 【適用】ピラトは弱いと言い切れるだろうか?私達も心ではキリストを救い主と認めながら、人の顔を恐れ、将来を心配して良心に反した行動を取り、神に従い切れない弱さがあるのではないだろうか。 Ⅲ.ローマにも見放された哀れなピラト 彼はローマでの将来を得るため良心を偽った行動に出たが、皮肉にもローマに見捨てられた。「それから3年後、ローマに召還されゴール地方に流刑され、そこで自殺をした」(ヨセフス『ユダヤ古代史』) 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主を信頼する者は守られる」(箴言29:25) 【結び】人生で最高の出会いはあなたの救い主であるキリスとの出会いである。キリストを信じ従う決断は最も素晴らしい決断である。その時「人への恐れ」が生じるかもしれないが、ピラトの前例に従わない道を選びたいものだ。当初の不安も後に必ず祝福に変わる。 【証】私の献身を両親に伝えた時の猛反対 寂しい献身…10年後の両親の驚くべき救い! |
2013年2月10日 主日礼拝
「挫折と回復」ヨハネ18章15節-18節, 25節-27節
| 【序】人生には家庭、仕事、人間関係そして信仰に挫折する事がある。聖書は主の弟子のリーダー格であったペテロが挫折した事を記している。しかし主イエスは彼を立ち上がらせ回復へと導かれる。それは躓きやすい私達への慰めであり励ましである。
Ⅰ.挫折の原因 1. 中途半端な位置に立つ ペテロは「外で門の所に立っていた」(16)「遠くから後をつけ」(マタイ26:58) 彼は場所的にも心理的にも中途半端なところに立っていた。なぜか?世を恐れた故の位置であっただろう。 2. 自信過剰の警告無視 彼の心に主への愛がなかった筈はない。主に従う決意も強かった。 「たとい御一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35) しかし彼は主が注意を促された警告を聞き流しゲッセマネの園での祈りに眠りこけた。数時間後主を否定する。 【適用】自分はそこまでは弱くないと過信し、祈らず聖書も聞き流していると、一寸した事で人の声が神の声の様に恐ろしくなり、遂には信仰をぼやかし、自分を守る事に必死になり、とんでもない恐れに囲まれる。 これほどの弱さを露呈したペテロであったが、回復する。それは何であったか? Ⅱ.挫折からの回復 1. 主の言葉を思い起こした 「すると直ぐ鶏が鳴いた」(27)「イエスの言葉を思い出した」(マタイ26:75)神は私たちの回りに様々なものを置いておられる。自然の声でも、環境からでも人との出会いからでも神の語りかけを「思い起こす」人は幸いである。 2. 主のまなざしと悔いの涙 「主は振り向いてペテロを見つめられた…その時ペテロは主のお言葉を思い出して激しく泣いた」(ルカ22:60,61) 自分の愚かさを知り回復できるのは主の赦しのまなざしに触れる時であろう。 3. 主のとりなしの祈り 「私はあなたの信仰がなくならないようにあなたの為に祈りました」だから立ち直ったら兄弟達を励ましてやりなさい」(ルカ22:32) |
2013年2月3日 主日礼拝
「危機を乗り切る」ヨハネ18章1節-11節
礼拝説教を聞く。
| 【序】「悩みに対する戦略を知らないビジネスマンは若死にする」とはノーベル医学賞受賞者アレクシス・カレル博士の言葉である。人生には危機が迫っているのに逃げる事ができず突入する事がある。仕事上の危機、家庭の危機、健康や人生の試練等…。
そんな時、危機に直面された最高のお方キリストからその対処の仕方を学びたい。 Ⅰ.キリストの危機とはどのようなものであったか ・弟子ユダによる裏切りと弟子達の離反。 ・兵千人とユダヤ当局による逮捕(3,12) ・不当且つ残酷な裁判、そして激痛の伴う十字架刑 Ⅱ.キリストの態度から学ぶ危機対処の仕方 1.祈りをもって臨め 「そこに園があって…そこに入られた」(1) 主は危機が迫る前にゲッセマネの園に行かれた。そこは祈りの場所であった。ルカ22:40によれば「いつもの場所に」とあり、危機の時にも祈りの姿勢は崩されなかった。 2.万事を益に変える神の御手にあることを覚えよ 「イエスは自分の身に起ころうとしている全てを知っておられた」(4) 私達は残念ながら主のように起こる事柄を前もっては知れない。しかし私達に起こる全てを益に変える愛の神を知っている。それは幸いな事だ。詩篇31:22に「私は慌てて言いました。主から絶たれたのだ、と」気をつけよう。 3.愛する者を危機に巻き込むな 「もし私を捜しているならこの人達をこのままで去らせなさい」(8) 主はご自分の危機に愛する者を巻き込むことを望まれなかった。 私達は自分の危機の時に不安な為、つい回りの者を巻き込んでしまう事がある。しかし巻き込んでも解決にはならない。人を巻き込みたい衝動に駆られた時、覚えたい事は箴言3:25,26の御言葉の約束である。 4.本来の使命に立て 「父が私に下さった杯をどうして飲まずにいられよう」(11) 危機の時、様々な逃げの道が頭をよぎる。しかし最も確かな道は使命の自覚に立つ事。自分の本来在るべき原点に帰る事。その責任を与えられ何をすることが神の御心なのか、信仰者として何を証すべきか、を考え行動する事。 |
2013年1月27日 主日礼拝
「救いとは魂の牧者に帰ること」Ⅰペテロ2章22-25節
| 【序】世界で活躍しているコメンテーターが「世界で一番美味しいものを食べているのは日本人だ。嘘だと思ったら世界に出てみると分かる」確かに魚一つにしても…生で、焼いて…と豊富。だから不況とはいえ、感謝すべき国に住んでいるし、生きる満足に溢れてしかるべきだが、現実は社会も個人も非常な不安や悩みをかかえている。それはなぜか? 聖書は、人がこの様な平和で豊かな国に住んでいるのに喜びに溢れていない訳は、「魂の牧者である神から離れて迷子の羊の様にさ迷っている」からだと言う(25)。迷子は以下の三つの事が分からない!
Ⅰ.どこから来たか分からないー自分の命の根元者を見失っている(25) 【例話】ある教会で子供達に人は神から命を与えられた事を教えようとして…別紙参照 【例話】1985年サンタモニカ海岸で日本人女性が子供を道連れに入水自殺を図ったが母親だけ助かり、裁判→母に尊属殺人20年の求刑!(我が子であっても我がものにあらず)→詩篇139:13-16 神こそあなたの創造者。このお方が解らない時、人は根元的生きる意味と目的を喪失する Ⅱ.どこにいるべきか分からないー自己存在の不安 自分も子供の時デパートで迷子になった時があるが、上に、下にと行ったり来たり堪らない不安だった。何かに没頭している時は不安はないが、気付いた時不安が生じる。同じ様に人生で何かに没頭している時は不安もないが、病、試練で躓く時、堪らない不安が襲う。この究極的原因は何か?原因は単純である。親(の愛)から離れた所に原因がある。それと同じ様に人は魂の牧者から離れている時、様々な人生の試練で根元的不安に襲われる。(アウグスチヌス)不安を隠そうとして人と自分も自信がないものだから人を妬んだり僻んだりする。 【こんな事が】開拓伝道初期の家庭集会で、集会後にケーキが出されたが… ※ではどの様にして自分の存在価値を見いだすか?学校か?資格か?これらは時に価値を提供してくれるが、悪い事にもっと優秀な人が出たり、問題が生じると、力にならない。聖書はそんな背伸びをして価値を見いだす必要はないと教える。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4) その言葉を実際の歴史で示されたのが→十字架に示された愛=22-24節 Ⅲ.どこに行くか分からないー人生の最後 人生の最後が「死」である事は子供でも分かっている。しかし分からないのが死んだら終わりなのか?何か別の世界があるのか? 【例話】ある教会で子供達に人は神から命を与えられた事を教えようとして 教師「みんなの命は誰から?」 生徒「お父さんとお母さんから」 教師「ではそのお父さんとお母さんは誰から?」 生徒「お爺さんとお祖母さんから」 教師「ではそのお爺さんとお祖母さんは誰から?」 生徒「ひいお爺さんとひいお祖母さんから」 教師(違う方向に行きそうだと思ったが、行くところまで行ってしまえと思い更に尋ねた)「ではそのひいお爺さんとひいお祖母さんは誰から?」 生徒「ひいひいお爺さんとひいひいお祖母さんから」 教師「では、そのひいひいお爺さんとひいひいお祖母さんは誰から?」 生徒「ひいひいひいお爺さんとひいひいひいお祖母さんから」 教会は「ひい、ひい、ひい」の大合唱となり、生徒達も「もう疲れた!」と。 |
2013年1月20日 主日礼拝
「患難に勝つ力」ヨハネ16章33節
礼拝説教を聞く。
| 【序】最近、「力」という字を加えて表現される新語が目に付く。「女子力」「男子力」「老人力」「人間力」「聖書力」…資格とか持ち物ではなく人間として苦難に勝つ力を求める時代の新造語である。今日の主題は「患難に勝つ力」だが、キリストはこの時代を見抜いておられるように、私たちに語っていて下さる。どうすれば患難に勝つ力を得られるのか、聖書に耳を傾けたい。
Ⅰ.勝てない患難があることを自覚せよ キリストは最後の晩餐で「あなたがたは世にあっては患難がある」と特に弟子達に語られた。それは自力で勝てない患難があるからである。人生には勝てないものが三つある。 ①罪―憎しみ、恨み、妬み、怒り、情欲、どん欲、言葉、消せるか?! ②死―言うまでもなく無力を感じさせるもの ③患難―人生の嵐、家庭、人間関係の悩み…どれほど多くの人が無力を感じ、時に自殺する事か! ∴自力であがくのを止めて神による真の支えを知っていただきたい! 【証】Yさんの人生に起こった試練と、見いだした聖書による心の支え… Ⅱ.勇敢であれ 「勇敢でありなさい」こういう言葉を聞くと益々自分はダメと思う人も多いのではないか。安心せよ。この「勇敢」という言葉は原語で「サレッセオ」=「希望を持つ」との意味である。つまり、患難の時は自分の心を奮い立たせるのではなく、希望を見出す時なのだ。ある人は、神の御心を忠実に行っていたら患難には会わないと誤解したり、患難に会うと神は自分を愛して下さらないと勘違いし、何か自分の生活に良くない事があるからだと自分を責める人がいる。しかし聖書がはっきり教えている事は、神は何と患難に会う人に励ましを与えてくださることか!「患難→忍耐→練られた品性→希望…神の愛」(ローマ5:3-5) (神様、そんなに愛していただかなくても結構ですと言いたい時もあるが…)。 正月の遊びにある凧揚げの様に順風では凧は上がらず、逆風を受けてこそ空に高く舞い上がる様に、患難という風を得て人生は祝福の道を歩む事ができる。患難は絶望する時ではなく逆風による祝福と力を体験する時なのである。 Ⅲ.全ての患難に勝利されたキリストと共に歩め 「わたしは既に世に勝った」キリストがこの言葉を語られる時、私とは無関係なのではなく、私たちが患難の時に私たちと共に歩み、力を与え勝利に導くことを約束されるからである。人生の患難に打ち勝たれたキリストと共に歩むなら、人生大丈夫なのである。 【証】17才でダイビング中の首の骨を折り首から下麻痺のジョニーさんの証… ジョニー・エレクソンさん証 17才の時ダイビング中に首を骨折し、四肢麻痺になり、医師から一生直らないと宣告された。ベッドに固定されて天井を見続けているという絶望のドン底で、キリストを知り希望と喜びを見いだした。口に筆をくわえて絵を描く画家として生きる希望が与えられ、明るく生きる姿に感動を与えそれがもとであちこちで講演して活躍。今では車椅子で世界中を回って聖書を通して得られた希望を語り続けている。「ジョニーさんはとても強い人ですね」と多くの方から言われるたびに「私は弱い人です。実際、私は入浴や着替えなどの一切を人に頼る生活の中で毎日弱さを感じないわけには行きません。でも強がりを言わず、素直に弱さを受け入れ、感謝していく時、神様が共にいて下さることを感じ、強くされているのかも知れません。自分の弱さを神様からの恵として受けとめたとき、とてもリラックスした幸せな気分に浸りました。自分の弱さは全ての人が経験するのですが、それをあるがままで受け入れ感謝できるかどうかが次の新しい一歩を踏み出す力になるのだと思います。弱さを名誉と受けとめる人と、強さを名誉としか考えられない人とでは、神の力の体験も違うのです」 |
2013年1月13日
主日礼拝
「自分自身に本当になれたのか」エペソ2章10節
エペソ2:10 「自分自身に本当になれたのか」 13/1.13 【序】室井滋という女優さんは早大時代に自主制作映画で女優として人気を博すが、その後は鳴かず飛ばずの時期を経て、映画「居酒屋ゆうれい」がきっかけで再び注目され、今や演技派スターとして活躍されている。彼女が読売新聞のインタビューでこう語った。「自分は自分。誰かになれるわけではないし、それよりも自分自身に本当になったのか?それこそ突き詰めて考えるべきだ」多くの人が自分自身になり切れず悩んでいるのではないか。他人の目を気にし、恐れ、自由を失い、ノイローゼにさえなってしまう。一回限りの人生で自分自身を精一杯生きれたらどんなに気持ちよく、自由を感じて人生を楽しむことが出来るか!でもどうしたら「本当に自分自身になれるのか」聖書からお伝えしたい。 Ⅰ.自分自身を生きることこそ最も幸福な道 ある人はもう少しお金があったら、良い仕事が出来れば、地位があれば、ルックスが良ければ、幸せになれるのにと思っているが、実際はそうではない。聖書のソロモン王は富も地位も繁栄も快楽も得たが「空の空、全ては虚しい」(伝道者の書)と寂しい人生。幸福とは地位、富、名誉に関係なく自分自身を生ききることにある。それこそ大自然の姿(獅子は獅子の如く、キリンはキリンの如く、河馬は河馬の如く)地球に70億もの人が住んでいるが二人と同じ人はいない。にも拘わらず人間だけが人を意識し恐れ落ち込むのである。どうしたら自分自身を生ききれるか? Ⅱ.自分の創造者を知る事→エペソ2:10 人間は神の作品である(2:10)と言う。作品の持ち味を最もよく知る人はその作者。同じ 様に、人間の作者である神を知ることこそ自分自身を生きるのに不可欠である。 「神の作品」=手作りの匠の業、との意味。この世に二つと無い特別の作品! ①だから比較して優越感、劣等感に陥ることはやめよう。 【例】お伽話に「兎と亀」がある。足の遅い亀も兎に勝つことがあるからがんばれ!だが、この話変!果たして兎が眠ってくれるか?現実は眠らずドンドン走り続けるのではないか!元々亀は兎と競争しなくて良い。神が造られた生き物は皆個性的で比較競争等しない。他人への目線を止めてあなたの創造者である神を知ることから自分らしく生きる道が開かれてくる。 「失望したければ回りを見よ、絶望したければ自分を見よ。希望を抱きたければ上(神)を見上げよ」(キュルケゴール) ②病も障害も失敗経験もみな個性である これらは人生の遅れではない。なぜなら万事は益になるからである。(ローマ8:28) 【証】新渡戸稲造は札幌農学校でクラーク博士から教育を受け、後に教育者(東京女子大創立者)、国際関係貢献、日本文化紹介(武士道)…しかし彼は5年に一度の鬱病に悩む。この時期を受け入れ、それが暖かさと変えられた。日本政府は彼の働きを高く評価し、5千円札の肖像にした… Ⅲ.神があなたを造られた目的は何か 「良い行いをするためにキリストイエスにあって造られた」 1のポイントに病も含めて個性と語ったが、やがて用いられる個性なのだ。 【証】賀川豊彦…出生の秘密(妾の子)を知って、自殺しようと思うほど悩んだが、 クリスチャンの呉服屋さんから宣教師を知り、やがて信仰を持ち使命感に生き神戸新開地という貧民街に赴き伝道…各々あらかじめ備えられた良い行い行うではないか! 。 |
2013年1月6日
主日礼拝
「わたしがあなたを選んだ」ヨハネ15章16節
|
ヨハネ15:16 「わたしがあなたを選んだ」 13/1.6 【序】2013年に入り、昨年ヨハネ縁福音書14章で終わったが、新年は15章から。今日の箇所はキリストが語られた素晴らしい約束が記されている有名な御言葉である。
Ⅰ.あなたは選ばれた 「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」 この短い1節にあなたが教会に来た本当の理由が記されている。勿論、教会に来たのには色々きっかけがあるだろう。家族や友人の誘い、何らかの問題解決、教会のイベントや活動、マスメディア…等様々。しかしきっかけがどうであろうと、あなたが教会に来た本当の理由は主があなたを選ばれたからである。また信じたのである。 主がこの御言葉を語られる理由―あなたが自分の価値を見失わないために。 人は誰かに価値づけられてこそ、生きる力を得る。誰もあなたに関心を抱かないなら生きる力を得ない。また無人島で一人いて博士号も社長という肩書きも意味はない。では誰に価値づけられるか?現代の無縁社会で人に期待するのは困難。あなたの創造者である神があなたに目を留めて選ばれたのだ。あなたの為に十字架で身代わりの裁きを受けて下さるほど愛して下さっているのだ。そこに人の愛が変わろうと、年老いても変わらない神からの価値付けがある。
Ⅱ.あなたは実を結ぶ 「それはあなたがたが行って実を結び」 あなたが神に選ばれたのは目的がある。宗教的に引き込もうというのではない。あなたが実を結ぶ生涯に生きるためである。二種類の実が聖書に記される。 ①一つはあなたの働きを通しての実=仕事や奉仕における実 ②もう一つは人格面における実=聖書が御霊の実と呼ぶ実→「愛、喜び、平安…」 この実を結ぶ秘訣はキリストという幹に繋がる事(15:4)と「剪定」(15:2) 今年実を結んだ葡萄の木であっても、来年実を結ぶ為にはどうしても必要な所だけを残して切り落とす剪定が不可欠である。これは譬え。人生の試練という剪定の事である。忘れてはいけないのは剪定という作業がある目的。剪定自体に目的があるのではなく実を結ぶ為!剪定作業を通して不要なところに気付かせ切り落とす作業をされる。あなたの試練もまた実を結ぶ為に必要な事なのだ。
Ⅲ.あなたは必要を満たされる 「私の名によって父に求めるものは何でもあなた方にお与えになります」 祈りの生活は神が人に与えられた特権である。私も50年近く祈りの人生を送ってきたが、確かに祈りの素晴らしい結果を見てきた。直ぐに答えられたもの、時間がかかったもの、願った事とは違った形で応えられたもの、様々なものがあった。ただ振り返って思うことは、力ある祈りにはマルコ11:24,25を学ぶことである→「山を動かす」様な祈りには一つだけ条件がある→人を赦す(マルコ11:24,25)事。 |
2013年1月1日
元旦礼拝
元旦礼拝「元気を出そう」Ⅱコリント12章6-10節
|
Ⅱコリント12:6-10 「元気を出そう」 13/1.1 【序】新年挨拶…今多くの人が「元気」を失っているのではないだろうか…金剛駅で37年間人の顔を見てきたが年々明るい顔が少なくなってきているように思う。気になる我が教会員の顔は、さすがに違う!時もある…「元気な心」は元気な身体以上に素晴らしいことである。困難にも打ち勝つからである。そこで新年最初に「元気を出そう」ということでメッセージをしたい。
Ⅰ.パウロもまた「弱さ」を経験する人であった 彼は元気印の人に思われがちだが、私達と同じ弱さを知る人であった。①仕事の成果が上がらない(アテネ伝道が振るわず傷心) ②仲間も離れて孤独 ③「肉体のトゲ」で痛みが増し加わる。そのために「(日に)三度」祈り続けたパウロ。私達と同じで仕事の成果上がらず失望 病気で弱気になり、孤独。
Ⅱ.神が示された「元気になる道」とは何か。 1.病・災いは「祟り」やダメ人間のしるしではないから元気を出そう 「肉体のトゲ」を「サタンの使い」と語っている。(7)この意味は「病気全てが悪魔の使い」との意味ではなく、パウロもこの病について神からの新しい啓示を受けるまでは、当時の解釈(祟り、悪魔の業)と考えていたという事だ。しかし神は「わたしの恵みはあなたに充分である」(9)と語られる。 【適用】三浦綾子さんの肺結核も「ハイ」と素直に返事しなかったから、顔の痣は前世で夫の顔を踏みつけた…と言われ悩んだ。「病」「災い」を「祟り」と言われどれだけ傷つく人がいたことか!しかし主イエス「…罪のせいではなく、神のわざがこの人に現れるため」(ヨハネ9:1-3) 2.神は挫折した人を特に愛されるから元気を出そう 世の中はとかく勝者と敗者を作る。神は勝者も敗者も愛される。しかしもっと素晴らしいことがある。それは神が敗者を特に愛される。なぜなら世の中が勝者だけを賞賛するからだ。9節→LB訳「わたしはあなたと共にいる。それで充分ではないか」) 3.挫折や弱さは限界ではなく新しい力へのステップであるから元気を出そう 弱さや挫折は単なる屈辱経験ではない。却って神の計画は、今まで経験しなかった新しい神の力の体験→「弱さの中で完全に現れる神の力の体験」(9) あなたは弱さに直面してガンバリそれでもダメだと自信喪失してこなかったか?大切なことは内側を見て奮起するのではなく、上を見上げて力を得ることだ。神は私達を未経験の新しい力の体験へと招かれる。弱さの自覚はそのための印である! 【証】アフリカのケニアの婦人の証…(次頁参照) 今年も昨年の弱さを持ち越しているかもしれないが、それが新しい神の力の体験となることが約束されている。信じて進もうではないか!
ケニア婦人の証 アフリカのケニアのある婦人が夫に先立たれ、広い土地を相続したが、その土地は殆どが岩山で、牧畜にも畑にも適していない。「この岩山が普通の畑であれば農業もできるのに…」と嘆いていた。相続税も払わねばならず、日毎の生活にも事欠く次第だった。クリスチャンであった婦人は毎週日曜日教会に通う人であったが、ある日の説教でマルコ11:23,24から「この山に向かって平らになれと言って疑わずに信じるなら、そうなる」と聞き、「これは素晴らしい。私の岩山に平地になれと命じればそうなるのか!」と喜び、説教者に尋ねた。「この御言葉は本当にイエス様が言われた言葉ですか?」「はい。そうです」「それなら聖書の通り山に向かって命じれば、そうなるんですね」「いや、これは問題の山のことを象徴的に語っているのです」「…でもイエス様が言われたお言葉ですね」「はい」 それから婦人は毎日岩山に向かって「平地になれ」と命じ続けた」一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月経っても何も起こらない。しかし彼女は諦めず祈り命じ続けた。四ヶ月経った頃、ケニア建設省の役人が訪ねてきてこう言った「奥さん、あの岩山を売って頂けませんか?実はナイロビ大学で調査させてもらったんですが、あの岩山の下にはアスファルトが相当埋蔵されていて、そのアスファルトでこの近くに高速道路を作りたいのです。いかがですか?」「勿論!」「では400万ドルでいいでしょうか」「はい!」次の日からこの岩山にブルドーザーが入り、岩山からアスファルトを次々と採りだした。やがて高速道路が完成した。更に役人がやってきてこう言った。「奥さん、この山ですが、もう私たちには必要ありませんので、残りをお返しします。畑でもなさって下さい」「ありがとうございます!」
|


