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あなたが人生を捨てても、人生はあなたを捨てない
―金剛バプテスト・キリスト教会―
 

メッセージ
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2017年1月1日元旦礼拝

「見よ、わたしは新しい事をする。」

 

2016年12月25日主日礼拝

「素晴らしい喜びの知らせ」ルカ2:8-12 音声で聴く。

 

ルカ2:8-1「素晴らしい喜びの知らせ」   

【序】今年のクリスマス礼拝は25日のキリスト誕生を記念する日曜日で正にピッタリの年。ところで誕生日は生まれた人に「おめでとう」と言うのに、キリストの誕生だけはお互いがおめでとうと不思議な祝い方をする。なぜか?→「民全体への素晴らしい喜び」(10)とある様に、キリストは人類に素晴らしい喜びをもたらすからである。

 

Ⅰ.生きる力を与えられる喜び

聖書に38年もの長い間病で立てない男が出てくる。38年とは余りに長い!

→三つの絶望 ①直らない絶望 ②友人に見捨てられる絶望 ③人生に意味があるのか?傷という絶望

しかしキリストは彼に「直りたいのか」と語りかけ、その人を立ち上らせ新しい人生を提供された。キリストは生きる力を与える喜びを今も提供される。

【輝く証人たち】父に捨てられ孤児院で育ったサリバン先生も、三重苦ヘレンケラーも、5年に一度発症する鬱で悩んだ新渡戸稲造も、頚椎損傷で首から麻痺した星野富弘も、キリストに出会い生きる力を与えられた。キリストは今なお世界中の人々に聖書を通して生きる力を与えられるのだ!

 

Ⅱ.過去の傷が癒される喜び

 私達はあの人の所為でこうなったとか、あの環境の所為でこうなったと過去に引きずられて生きてしまい易いが、それでは幸福になれない。鍵は受容!でもどう受容できるか?

【ヨセフ】17才の時、腹違いの兄達に虐待を受けエジプトに奴隷として売り飛ばされる、挙句の果て無実の罪で牢獄生活十三年。しかし不思議な運命に導かれエジプトの大臣として抜擢される。後にかつて彼を虐待した兄達に再会。復讐を恐れた兄に向ってヨセフは言う「今、私をここに売った事で心を痛めたりしてはなりません。神は命を救うためにあなたがたより先に私を遣わして下さったのです」(創世記45:,5)意味が変わった!

辛い経験があったとしても、恵みの神を知る時、意味が変わるのだ!

 

Ⅲ.心配からの解放される喜び

人は様々な事を心配する。健康、人間関係、仕事、将来…。しかし「心配毎の的中率は1%」を御存知か?これはモンテーニュが著『随想録』で語った言葉「私の生涯は恐ろしい禍に満ち満ちたものに思われた。しかしその実際は起こらなかった。心配事の的中率は1%に過ぎなかった」正に経験者語るだが、それでも1%の心配事の的中率を心配するのが心配性の特徴だ。そのために不安を抱くのだが、どうだろう?もし最悪の現実になったとしても、その最悪でさえへ祝福に変える御方がいるとしたら…それは正に朗報!そんなお方がいるのか。おられるのだ。私達を造り、万物を治めておられる愛と全能の神がこう語られる「神は全ての事を働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)

 

Ⅳ.最大の不安である死に打ち勝つ永遠の命の喜び

牧師として多くの人の死と接してきた。言える事は死は最大の不安だという事。しかしここに素晴らしい喜びが与えられる。キリストは死を打ち破って信じる者に永遠の命を賜るからである。ヨハネ6:39,40

【輝く証人たち】今年死に打ち勝った教会員の死に臨んでの希望…

2016年12月18日主日礼拝

「キリストは単なる聖人か」ピリピ2:3-11音声で聴く。

 

ピリピ2:3-11     「キリストは単なる聖人か?」  

【序】小学生時に先生が「世界には三大聖人がいる。釈迦と孔子とキリスだ」と言われ興味をもった。しかし後に分かった事は、先生が挙げた先の二人は聖人だが、最後のキリストは単なる聖人ではなかった。クリスマスシーズン、聖書の語るキリストについてメッセージしたい。

 

Ⅰ.キリストの本質

「神のみ姿であるのに人となられた」(6,7)

notキリストは三大聖人の一人で天才的な宗教家で遂に死後神として祀られた。

But神としての栄誉を捨てて人となられたたお方。それがキリスト!

キリストが神であると信じられる理由:

奇跡…嘘なら福音書自体が当時抹殺されていた筈 言葉…キリスト自身の言葉(父と同一)

人格…愛の極み 世界広がり

キリストは神に近い人間ではなく、人間となられた神であるそして大切なことはそのキリストはなたと無関係な神ではないのだ。

 

Ⅱ.キリストの目的

 (キリストは)…実に十字架の死にまでも従われた」(8)

はキリストが神の御姿を捨ててまで地上の来られた目的は何か?それは「十字架の死によって」私たちを罪の裁きから救うためであった。故に私たちと無関係な出来事ではなかったのである。聖書には「人間には一度死ぬことと死後に裁きがある事が定まっている」(へブル9:27)とあるが、私たちは個々に言葉、思い、行いにおいて罪を犯してきたものである。更には根源的には神に造られたのにその創造者である神を信ぜず従ってこなかったという原罪の罪がある。その罪を自分では解決できない。そしてキリストはそんな私達の罪の裁きを身代りに受けてくださった、それが十字架である。その為に地上に生まれてくださったのだ。

 【証】芥川龍之介「蜘蛛の糸」のお釈迦さんとキリストの違い…切れてしまう蜘蛛の糸による救いではなく(せめて太いロープにしてもらわないと!)人の罪と裁き身代りに負って救いの道を開かれたその愛!

 

Ⅲ.キリストの生き方

聖書は3~5節でキリストを我々人間の生き方の模範だと語っている。その模範とは一言で言えば「自らを捨てる生き方(7,8)である。獲得する事に終始してきた私たちは、喪失は辛い。しかし喪失は人生の現実。最後には命を喪失する。

二つのことを覚えたい

①喪失失う事ではなく捧げる事である。与え主である神にお返しする事だ。

ー癩玉木愛子さんの歌「目を捧げ手を捧げクリスマス」

喪失栄光に繋がる→9節

フランシスの「平和の祈り(次頁参照)

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。

 

―フランシスの「平和の祈り」― 

 

 

  

2016年12月11日主日礼拝

「なぜベツレヘムの馬小屋で」ルカ2:1-7 音声で聴く。

 

Ⅰ.アウグスト帝の勅令が出たから
l 「全世界の住民登録をせよという勅令が皇帝アウグスト(ローマ初代皇帝)から出た」(1)
この勅令は9ヶ月の身重になっていたマリヤには命の危機をはらんでいた→300㎞のでこぼこ道をロバにゆられての危険な長旅。しかし皇帝命令で従わざるを得ない。このような中で人類の救い主イエス・キリストはお生まれになったが、大切なのは、その救い主の誕生はキリストがお生まれになる六百年前の預言者ミカを通して「ベツレヘムで生まれる」ことが神によって預言されていたのだ。すると迷惑な皇帝に動かされてベツレヘムまで来たと思っていたが、そうではなく神が皇帝をも動かして見事にそして彼らには無事に預言を実現された。ここに励ましがある。
【適用】あなたの人生にもあなたの意志を無視してあなたを動かすような「アウグスト」なるものがいるかもしれない(病、試練、人…)。でもあなたを真に動かすのは誰か?「アウグスト」ではない。アウグストは神の道具でしかない。真に動かすのは神なのだ。そして「アウグスト」さえ神の恵みの体験へと導かれる
Ⅱ.馬小屋のように汚れと闇の中にいる私達を救うためである
 「飼い葉桶に寝かせた」(7a) 
馬小屋は暗くて不潔。出産には誠に適していないが、キリストはそこにお生まれになった。しかし私達の世界や心は時に馬小屋以上に汚れ暗いのではないか?キリストが馬小屋を宿としたのはその様な暗くて汚れた世界を清め救うためであった。キリストは人間の闇と汚れを担って十字架にかかり、救いの道を開いて下さったのだ。【適用】私たちの手の罪のためにキリストの手は釘打たれ、私たちが行ってはならない足の罪のためにキリストの足は釘打たれ、私たちが発してならない言葉の罪のためにキリストの頬は殴られ唾をかけられ、私たちが抱いてはならない悪い考えのためにキリストの頭に棘のある茨の冠がかぶせられ、私たちが心に潜ませてはならない憎しみ妬み、心の罪のためにキリストの心臓に槍が突き刺されたのだ。

Ⅲ.神の御子なのに正当な扱いを受けられなかったから
 「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(7b)
 もしマリヤの胎におられるのが神の御子と皆が認めていたら馬小屋をあてがわれるのではなく、もっと手厚い扱いを受けられただろう。しかしヨセフもマリヤも貧しい大工の夫婦、またマリヤの胎の子も神の御子とは受け止められなかったのだ。
【証】神学生時、ある教会の青年会に説教を頼まれた。クリスマス劇があり、意地悪な宿屋の主人の演技が面白くて皆の笑いを誘っていた。そして最後の宿屋の主人の酷い扱いに肩を落として立ち去るヨセフとマリヤに、男の子が泣きながら叫んだ「ヨセフさん、マリヤさん、ボクの家に来て泊まって下さい!」知的障害の子だった。彼には主への愛があった!→私達はキリストを人生の王座にお迎えしているだろうか?


2016年12月4日主日礼拝

「確かな人生に導くもの」マタイ2:1-11 音声で聴く。

 

「確かな人生に導くもの」       

【序】ある心理学者が言った「努力は報われると一般では言われるが、必ずしもそうではない。報われない事が多い。しかしその努力がグンと報われる確率が高くなるケースがある。それは、確かな何かを信じて、誰かを信じて努力するなら、報われる確率が高くなる」と。すると問題は何を信じて生きるのかという事だが、世界中で最も親しまれ影響を与えてきた聖書の神を信じて生きる時に努力も報われ、確かな人生に導かれていくのではないか。今日の話は「東方の博士達」が人類の救い主キリストを拝むために二千㎞の旅を隔ててやってきたところだが、神が彼らを三つの確かなもので導かれた。現代にも適用できるものである。お伝えしたい。


確かな人生に導く「星」

 東方の博士達は救い主に会う為に2千㎞の旅をしてきたが、どっちを向いても砂漠の砂ばかり。どうして方向が分かるだろう?→神が「星」で導かれたとある(2)。
今も神は私たちに確かな人生を歩めるように様々な「星」で導かれるのだ。
 【適用】あなたが教会に来たのはたまたまと思っているかもしれないが、聖書には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。(ヨハネ15:16)とあり、神は今も様々な「星」をもって私達を導かれる。ある人には家族や友人を通し、又様々な集会を通し、そして時には苦難や病や問題を通してでもあるのだ。∴苦難で必要以上に落ち込まない事だ。それはあなたを神の愛と救いに導くための「星」なのだから!

確かな人生に導く「聖書」


  東方の博士達はエルサレムまでは星に導かれて来たが、救い主誕生の場所がベツレヘムである事は「聖書」(5,6)から聞かねば分からなかった。人生の答えと救いを得るには「聖書の言葉に聞く事」が大切なのだ。
  個人的に信仰生活50年以上してきての実感は「聖書は真実である」だ。
【証】会堂建設時の御言葉(マタイ16:18)と御言葉に伴う印…
【証】三浦綾子さんも以下のように語っている。 「聖書を読むまでは黒い不気味な影だけを見つめていたが、光の神の方に私を振り向かせ、神の愛によって生きる力と確かな目標が定まった…」と。(「聖書と私」)

.確かな人生を導くのは理想環境ではなく正しい目標である


東方の博士達は人類の救い主がお生まれになる環境が幼児さえ虐殺するヘロデ王の世という悪い環境とは思わなかっただろう。しかし神は彼らを守り安全に導かれた。そして彼らは宝物を捧げる目的を果たした。ここに励ましとチャレンジががある。
【適用】私達は理想環境を求め易い。しかし求めるべき答えは理想の環境でなくてよいのだ。大切な事は、理想の環境を求めることではなく、目的を果たすことなのだ。たとえ劣悪環境の中でも、東方の博士達のように目的を果たすことだ。そうすると「この上ない喜びと安全」が博士達にも臨んだようにあなたにも臨むであろう。


2016年11月27日主日礼拝

「泉の湧く生涯」詩篇84:5-6 音声で聴く。

 

詩篇84:5-6  「泉の湧く生涯」

【序】6節に「涙の谷を過ぎる時も」とあるが、これは全ての人が通る谷ではないだろうか。男も女も、年輩の方も若い人も。…人間関係がこじれたり、長い病の谷を通らされたり、思いも寄らない突然の悲しみだったり、まじめに生きてきたのに誤解されたり…。こういう時どうやって立ち上がるか? 聖書の励ましの言葉を聞いて頂きたい。


.「涙の谷を通る理由」

涙の谷を歩んでいるとき、人は色々と間違った理由付けを聞かされる。
「悪い環境に生まれたから」「過去の失敗の所為だから」「心がけが悪かったから」…。
しかし聖書はそう言わない。→「そこを泉の湧くところとします」(6) つまり、あなたが涙の谷を通った理由は「泉の湧く生涯への招き」だったのだ。 どんな否定的なエネルギーや悲しみを受けても、さながら凧が逆風を受けて空高く舞い上がる様に、神の御心は、涙が癒されるだけではなく、その経験を通してあなた自身と周りの人に泉が湧き上がる様な経験に導く事にある。即ち涙の谷を経て人への優しさを持つ存在になる事だ。
しかし神のこの素晴らしい御心が分からず、以下の生き方をしてしまう。


.多くの人に見る三つの生き方

1.マイナスからマイナスへ
例:「又こんな不幸に出会った…前もそうだった。きっと私の人生はこれで最後まで行くんだ」
親が子に:「おまえ又ゼロ点。前もゼロ点。この次もそうだろう」→これではやる気が出ない。
【比較】N師の小学生の息子テストで0点を取った。「えらい!これ以上さがらない点を取った。えらい!これを隠さず親に言えた」→息子は後に教師になった 運命を決めるのはあなたや環境ではない、神なのだ!

2.プラスからマイナスへ
【例】電車に乗ったらこんな会話が「今はピチピチでもそのうち中年よ」(女子高生が中学生に!)
人生の流れはプラスからマイナスだ。故に今の内に楽しんでおかないと、という訳だが年が行くと地金も出る。【例】ある老夫妻が痴呆になり老人ホームへ。そこで二人の地金が全く違う形で出た。
夫「教師たる者、夫たる者…」といつも説教癖。見舞いに来たのにが叱られて帰らねばならない。
妻「まあきれい」「ああおいしい」「ありがとう」の三つしか言わない。夫人の回りには看護師さんで一杯!。

3.マイナスからプラスへ
真面目な人の語る言葉「今はダメでも、やがて良くなる」
しかしこれは、今いる所を感謝無しで生きているからどこまで行っても満足しない人生である。今日感謝できないなら明日もできない。


.泉の湧く生涯の秘訣

「その力があなたにあり、その力があなた(神)にありその心がシオンへの大路にある人」(5)
「あなた」とはあなたの創造者である神。あなたも涙の谷を過ぎる時も泉の湧く生涯に導く神を受け入れて共に進んでは如何か?
→どんなに美味い食事も説明を聞くだけでは味わえない。神について聞くだけでは信仰は解らない。

2016年11月20日主日礼拝

「最大の試練」創世記22:1-14 音声で聴く。

 

創世記22:1-14  「最大の試練」

【序】アブラハムにとって最大の試練が起こる。「息子を捧げよ」と。父が殺人をするのではない、気がふれたのでもない。神の命令だという。何と言う事か!ところがこの場面が絵画、小説、映画の題材になり、「信仰の父」として賞賛される。この試練の意味は何か?私たちも様々な試練を受けるが、それと併せて学びたい。


.「愛するものは誰のものか?」が問われた試練

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」(2)とある。年老いてやっと生まれた世継ぎの我が子。正に「目に入れても痛くない程」愛していた。しかしである。愛しているものには執着が生まれる。執着があるとなかなか手放せない。しかし現実は、手放さねばならない時が来る。人でも財産でも仕事でも。するとそれを受け入れられないで深い傷ができてしまう。しかし「私たちは裸で胎を出て裸でかしこに帰る」(ヨブ1:21)とあるように命も家族もお金も神から戴いたのだ。いつの間にか「わがもの」になり、執着が生まれてしまうのだ。故に「何と理不尽な」と叫ぶのは、所有者を間違った叫びなのだ。神こそ一切の所有者であるのに、私たちが所有者になる。アブラハムは神こそ所有者また与え主である事との本来の姿を自覚し乗り越えた。ここにアブラハムが信仰の父と尊敬される理由がある。
【証】30年前手術で入院し礼拝を休まねばならない時があった。病室で一人一人のために祈っていた時、光?が差し込み御言葉が語られた「わたしの羊を養え…私の羊であってあなたの羊ではない。わたの教会であってあなたの教会ではない」と。「わがもの」から神にお捧げした次第である。


.神に従って大丈夫なのかが問われた試練

「神が我が息子を与えておいて捧げよ」とは理不尽な!本当に神に従って、神の言葉に従う人生に間違いはないのか?が探られた試練である。私達も神に従う事が分からなくなる時がある。キリストの弟子達も3年半主と一緒にいたのに主の裁判の時、心くじけて恐怖のあまり主を裏切り従い通すことができなかった。そんな時キリストが言われた言葉がある「ガリラヤに行きなさい。そこで会おう」(マタイ28:10)ガリラヤは弟子達が初めて主と出会った場所。即ちもう一度「原点」に戻ることだ。今までのことを振り返り、恵みの一つ一つを思い返すことである。すると何が大事か、また如何に神に守られてきたか、神の導きがあったかが解り神の真実が見えてくる。従う事に不安を感じるだろうが、アブラハムにも羊が代わりに備えられていた様にあなたにも備えがある→「主の山に備えあり」(22:14)


.死は全てが終わりなのかが問われた試練

イサクを捧げてしまえばつまり死んでしまえば全てが終わりではないか、という不安。しかしへブル11:17-19にはアブラハムが復活信仰を与えられた事を語っている。神が無茶なことを言われるはずはない、敢えてそうなら神は全責任をもって我が子の命を甦らせてさえくださるだろう、との復活信仰!が与えられたのだ。
【証】映画「ベンハー」の原作者ルー・ウオーレスの回心

不朽の名作映画「ベン・ハー」の原作者ルー・ウオーレスの回心
米国の南北戦争時代。将軍であった彼は徹底的な無神論者で、弱く見えたクリスチャンのキリスト信仰が間違いであることを立証する本を書く誓いを立てた。彼は5年間取りつかれたように当時の文献を読みあさった。ローマにもエルサレムにも行って死に物狂いでキリスト教批判御本を書く為に没頭した。
膨大な資料に囲まれ第一章を書き終え、第二章に取り組んでいたある夜の事、突然ペンを投げ出しひざまずいて叫んだ「わが神よ、わが救い主よ!」
ずっと彼の敵であったキリストに向かっての叫びだったのだ。
彼を突き動かしたのは否定できない二つのことであった。
1.十字架上でのキリストの祈り「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないでいるのです」
2.キリストの死後、おどおどしていたキリストの弟子たちに見られる命を懸けての伝道と殉教。
この二つがルー・ウオーレスの心を捕えて離さなかったのだ。それまでキリストを否定するために研究してきた資料を前に、新たにペンを握り直して書き始めた。それがあの「ベン・ハー」だった。

2016年11月13日主日礼拝

「望みを捨ててはいけない」創世記21:14-21 音声で聴く。

 

創世記21:14-21  「望みを捨ててはいけない」

【序】石川啄木の詩に『石川は不憫な奴だ 時にこう自分に言いて 悲しみてみる』がある。自分の事を不憫な奴だと考えると悲しみが出てくるという、私でも書けそうなごく当たり前の詩を書いている。しかしこういう詩がなぜか世に出、共感も呼ぶ。それは人間というのは自分を見て自信喪失し嘆く時が多いからだ。しかし今日伝えたいのはそんな嘆く私たちに目を留め、励まし、生きる望みと力を与えられるお方がいるのを伝えたい。


.神はクリスチャンの神だけではなくノンクリスチャンの神でもある

聖書の中心的流れで言えば人類の救い主の家系アブラハムの子孫が中心である。しかしこの箇所は中心から離れてハガルとイシマエルの苦しみに目を留める神の姿が現されている。ハガルの言葉に信仰的発言も祈りもある訳ではない。ただ嘆きと涙!(16)しかし神はその人が嘆きと苦しみの中にあるという理由で目に留め憐れまれるお方なのだ。即ち聖書の神はクリスチャンの神のみならず、ノンクリスチャンの神でもある。端的に言えば嘆く者の神なのだ。人種の差も、男女の差も、貧富の差も、宗教の差もない。ただ神は嘆く者を救う方なのだ。詩篇12:5


.ハガル達に命の危機をもたらした原因は何か

直接の原因は、サラがハガルを追い出したからだが、真の原因の根はもっと深い。十数年前サラが夫アブラハムに子供がないのを苦慮し思い切って女奴隷ハガルを夫に進呈して子供を得させた。これはサラの「良かれ」と思っての行動であった。しかしこの「良かれ」が後々悲劇をもたらす。というのは、後になってサラは神が約束されていた子供を与えられ、結果ハガル達と対立し彼らを追い出し命の危機にさらすことになった。結局サラが「良かれ」と思って出た行動では問題は解決せず早まった浅千恵であり、ハガル達を危機に陥れた真の原因であった。
【適用】私達も「良かれ」と思っての行動は多い。あの人のためにこれは良いことだと思って事を進める。しかし良かれと思うのは自分に悪気はないがやはり独りよがりである。①相手が望んでいるとは限らないからである。②大切なのは「良かれ」という思いで行動するのではなく「神の御心」はどこにあるのかと考え行動することである。ローマ12:2


.あなたが人生を捨てても、神はあなたを捨てない

ハガルとイシマエルは水がなく今にも死ぬ寸前であった。ハガルは「その子を投げ出した」(15)が人生をも投げ出した。しかし神は彼女と息子を憐れみ救われた。それのみか「大いなる国民とする」というビジョンさえ与えられた。(18)
それ故に私たちが絶望的な状況に直面しても望みを捨ててはいけないのだ。
【証】フジ子へミングの逆転人生…(次頁参照)
人生はどこでどうなるか解らない。結論を出すのをもう少し、延ばしてみないか? なぜならあなたを造られた愛の神があなたの嘆きを希望に変えて下さるからだ!


フジ子ヘミングの人生
彼女は若い頃から天才的ピアニストと言われながら、実際にデビューしたのは1998年で60歳を過ぎてからだった。ドイツに留学し有名な指揮者バーンスタインに認められ華々しいデビューの機会が与えられたが、風邪をこじらせ全く耳が聞こえなって演奏会は中止。次第に音楽界からは忘れられていった。95年お母さんの死で日本に戻り、96年聖路加病院のロビーでボランティアとして患者さんのためにピアノを弾くだけになっていたが、あるきっかけで、NHKディレクターがそばを通り彼女の素晴らしい演奏を聴きインタビュをした。そして彼女の人生を「フジ子・あるピアニストの軌跡」という番組を制作し、その中でリストの難曲と言われる「ラ・カンパネラ」を弾いた。番組の最中全国から電話があり「あの素晴らしい演奏家は誰ですか。今まで見た事も聞いたこともない」その演奏に感動した人がCDを作り、クラシック界では記録を塗り替える54万枚が売られた。その後国際的な舞台で活躍し今日に至っています。彼女はこう言っている。
「今の私は以前よりずっとピアノが上手くなりました。どうしてもっと早くこの時が来なかったのか、と思ったことがありますが、今がその時だと思います。それまでの不遇の生活を支えたのは聖書の言葉でした」
「もし遅くなってもそれを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2:3)

2016年11月6日主日礼拝

「悩むことはない」創世記21:8-13 音声で聴く。

 

創世記21:8-13  「悩むことはない」

【序】地域の金剛中学にどこかの開店セールの様に「のぼり」が何本も立っている。「元気にあいさつを」その中に「子供は地域の宝もの」があった。聖書にも、神にとって人間は宝とある。しかし現実は宝の様に輝いてばかりではない。悩みで暗くなるのだ。今日の箇所を見ると、信仰の父と言われたアブラハムもある問題で大いに悩んだ。一体それは何か?またどの様な解決の道が開かれたのか。私たちが経験する悩みと併せて解決の道を示されたい。


.アブラハムの悩み

「アブラハムは非常に悩んだ」(11)。悩んだ理由は家庭の事。年いって生まれた約束の子イサクを女奴隷の子イシマエルがからかう姿(9)に、母サラは以前もハガルがイシマエルを胎に宿した時自分を見下げた姿と重なって、とうとう堪忍袋の緒が切れ(柄悪く言えば)「内の子に何サラ?すねん!」とばかり怒り「ハガルとイシマエルを追い出して下さい」(10)と夫に詰め寄ったからである。夫アブラハムもオロオロ。家の内輪もめは辛い。立派な信仰の父アブラハムも成す術がなかった。


.悩みの解決の道

1.悩みを解決する力のある神を呼び求めなさい
12節に「悩んではならない」と神が言われる。この言葉は答えを持たない人間が言うのではない。答えをお持ちの神が言われるのだ。この言葉は、悩む人を弱いと責めたり、過去の不手際を非難する言葉ではない。この言葉は、人間の心の方向を変える言葉だ。即ち、自分や周りを見るのではなく神を仰ぎなさい、という意味だ。→「苦難の日には私を呼び求めよ。私はあなたを助け、あなたはわたしを崇めよう」(詩篇50:15)
キリスト教の諺に「失望したければ自分を見なさい。絶望したければ周りを見なさい。しかし希望を抱きたければ上(神)を仰ぎなさい」とある。∴悩みの時、自分や環境から目を離してあなたの悩みに対する答えをお持ちの神を呼び求めなさい、なのだ。

2.神には最善の計画があるのを知りなさい
アブラハムが考えていた事は何とか一つ屋根の下で争いのない暮らしをしてほしいという事だった。しかしそれでは両者が我慢するだけである。それに対して神の計画は違った。神はアブラハムとハガル達に新しい計画を示し別々の生き方をする事だった→12,13節。現代に適用すれば離れて生活しなさいという事よりも、あなたの悩みに予期しない祝福計画があるという事→イザヤ55:8

3.悩む今があなたの全てではない
アブラハムの心配は、果たして我が子二人が争いのまま生きるのではないかという事だっただろう。しかしその後、仲良くする姿を聖書は見せている→25:9
アブラハムの葬儀の時ふたりして父を葬る姿である。つまり二人はしばし離れたが、心通わせ会う時も来たのだ!時が解決すると言われるが正にその通り。故に今あなたが悩みの中にあるとしても将来を神に委ねて進むことだ。そのうち驚く祝福の時も来るのだ。今があなたの全てではないのだ!
【証】仏教で行くという細川猛郎さん(96才)の救いと洗礼…伝道者の書3:1


2016年10月30日主日礼拝

「力のない者の勝利」Ⅱ歴代誌14:9-12 音声で聴く。

 

Ⅱ歴代誌14:9-12  「力のない者の勝利」

【序】今年“オートファジー”と呼ばれる仕組みを解明した大隅良典氏がノーベル賞に選ばれた。27年半に渡る研究が奏功したのだ。ところで今日、努力すれば報われるかといえば、そうとも限らない。大きな問題に前進を阻まれ、行き詰まるということも度々あるだろう。時に私たちは挫折と失望を味わうが、何か朗報はないのか?ある!今日の箇所は「弱い者に与えられる祝福」を語る。それを体験したアサ王から語ろう。


.苦難は祝福を体験する機会となる

アサが王になり、10年が経った頃、クシュ人ゼラフが軍を率いて王国に押し寄せた。彼の兵士は58万人。敵の兵士は倍の100万人。まず勝ち目はない。彼はこの時、神に愚痴をこぼしたり、自分の判断で応戦しようとはしなかった。ただ現状を嘆いた。自分の弱さを認め、神に叫んだ。→深い嘆きが祈りを生み出し、勝利をもたらした!
【適用】自分ではどうにもできない試練や問題をどう捉え、どのように対応するのか?作家C.S.ルイス「痛みは神の拡声器。愛に満ちた神からのモーニングコールです。」苦難は必ずしも悪いことではない。嘆きと憂いは祈りの原動力となる。アサに倣おう。


.主は力のない者を助けられる

アサの祈りは心に響く。「力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。」(11)アサは主が全能であり、その力に限界はないと信じていた。大胆に助けを求めて良い。力のない者をこそ助けて下さるとの信仰だ。問題があまりにも大きいと、人は神を遠く感じたり、忘れられているような思いになる。「神は私を顧みて下さるのか?」もちろんだ。神はあなたに御手を差し伸べて下さる。
【証】井草聖二さんは中学生の時、人間関係に悩んで、ひきこもりになった。ギターを始め、高校には通ったが、誰にも心を開けないままだった。ある日、彼は自分のために祈り続けていた人々を知る。“神の愛”を頭ではなく、心で理解できた瞬間だった。かつては人と会話さえできなかったが、今ではギタリストとして様々な場所で活躍している。→「力の強い者、力のない者を助けるのも、主にとって変わりはありません。」


.主を信じて進みなさい

アサの祈りには驚く。「…私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。」(11)彼は「助けて下さい」と祈っただけではなかった。100万人の軍勢を「人間に過ぎない」と考え、敵の背後に神を見、「主にあって必ず勝利できる」と信じていた。アサが「御名によって大軍に当たります」と宣言したのはいつか?戦いが有利になり、敵の退散を見てから…ではなかった。戦いを始める前だ。「主を信じて前進するなら、主は必ず助けて下さる」という信仰を持っていた。また実際に勝利することができた!
【例】ヨシュアも、ヨルダン川で同じ体験をした(ヨシュア記3章)。主の言葉に従い、「祭司たちの足が水際に浸った時」、「水はつっ立って…水は完全にせきとめられた」とある。→信仰を働かせた時、人は神の力を体験する。神はこんな信仰を喜ばれる。
【適用】主の愛と力を信じて、一歩踏み出そう!主はあなたに力をあらわして下さる。


2016年10月23日主日礼拝

「あなたに関する神の祝福計画」エペソ2:10 音声で聴く。

 

エペソ2:10  「あなたに関する神の祝福計画」

【序】金持と音楽家が歩いていた…虫の音は音楽家には聞こえたが金持には聞こえない。お金の落ちる音は金持には聞こえたが音楽家には聞こえない。人は関心に従って聞き分けている。関心に従って見るもの聞くものが決まってくる。どんな人生を生きるかは、何に関心を持っているかで決まってくる。…豊かなそして確かな人生を生きるためには聖書に関心を持たれることをお勧めしたい。なぜなら聖書には「あなたに関する神の祝福計画」があるからだ。


.第1―あなたの命の作者を知る

「あなたは神の作品」(10)
高校3年生まで私は人間の命の作者は両親と思っていた。確かに両親を通して人は生まれるが、男か女かさえ両親には決定できない。聖書によれば、あなたの命の作者は神なのだ!人間の構造を見る時「デザイナー」無しには不可能な見事な業! 【例】人間の骨の中で唯一成長しない骨がある。耳小骨(3㎜)。外部の音がこの骨に当たり脳に伝える共鳴体。もしこの骨が他の骨の様に成長するなら、日々に音が違って聞こえてしまい、特に母の声が日々違って聞こえる!耳小骨が成長しないのは正に素晴らしいデザイナー(神)がおられるとしか考えられないではないか?!。


.第2―あなたの価値を知る

「神の作品」=原語は神の最高傑作との意味
→神はあなたという存在自体に最高の価値を置いておられる。
人は皆自分の価値を付けようとして必死な努力をする。人生は価値作成の歩み→教育、資格、才能、富、地位…。しかしその価値づけはやがて挫折もあり傷がつく。 【証】リオオリンピックで史上初の大記録―23個目の金メダルを取った水泳の怪物フェルプス選手の挫折と回復。8歳の時、両親離婚。父は彼に会おうとせず、自分は愛されてないと心に傷。しかし水泳で目覚ましい活躍。皆称賛し、父の愛の無いことを忘れる事も出来た。しかし体力の衰えと共に酒浸り、飲酒運転で二度の逮捕。英雄扱いはどん底。儚さを知り鬱病。そんな時、アメフトのスーパースターのレイ・ルイスが一冊の聖書メッセージ本を送ってくれた。内容は「人の価値はメダルの多さや実績にあるのではなく、ただ神に造られた事実の故に価値があるのだ、その価値は犯罪を犯しても変わる事はない」→リオオリンピックで金メダル獲得した。
聖書は人間を譬えるのに「羊」が多いが一つ変わっているのがある→「お金」だ。
私が持っている1万円紙幣。こうしてくしゃくしゃにしても踏みつけても価値は変わらない。1万円は1万円!あなたが過去に人に踏みつけられても、いじめられても、年老いて何もできなくなっても、価値は変わらないのだ!(イザヤ43:4)


.第3―あなたの使命を知る

「良い行いをするためにキリストイエスにあって造られた。…その良い行いをもあらかじめ備えられた」(10)
「良い行い」からボランティアを考える人もいるかもしれないが、イライラカリカリの心でボランティアしても届かない。むしろ行いの前に心が大切である→エペソ4:32「お互いに親切にし心優しい人となり…互いに赦し合いなさい」とある。人間洞察に優れた太宰治は言う「優秀の優という字はやさしいとも読む。真に優秀な人は優しい人だ。中途半端に優れている人が人を傷つける」と。心したい。そこからあなたらしい良い行いがついてくる。その行いも備えられている。


2016年10月16日主日礼拝

「イサク誕生が意味するもの」創世記21:1-7 音声で聴く。

 

創世記21:1-7  「イサク誕生が意味するもの」

【序】ギネスブックには世界最高齢の初産記録がある。米国のルイスさんで57才だが、アブラハムとサラ夫婦に生まれたイサクはアブラハム百歳、サラ90才の時。(4千年前アブラハムの寿命175才、サラ127才ではあるが…)。とはいえ超高齢出産! しかしこの赤ちゃんの誕生は、ただ高齢出産とか、待望の初子だったとかという事以上に、私達にも適用できる励ましのメッセージがある。


.成功後の油断に気を付けよ

「約束の通り」「仰せの通り」(1)と繰り返されているように、イサク誕生は神が語られていた約束を真実に守られた事を意味している。それは今日「聖書」に従って生きる者に、神の言葉に従って間違いはないという励ましである。しかし覚えておきたい事は、神の言葉の実現の「時」に関しては、ぎりぎりまで示されなかった、ということである。なぜか?それは、神は直ぐに「時」を示すよりも、約束の御言葉を信頼して待ち望むこと、忍耐して希望を持ち続けることを、より大切なこととされているからである。
【適用】あなたも聖書に聞き従う人生の中で、神の御言葉に励まされてきただろう。しかしなかなか実現しなくて神の沈黙のように感じて事があるのではないか。しかし神の時があるのだ。
「もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2:3)


.神は全能である

アブラハム100才、サラ90才の時イサクは誕生した(5) 現代の年齢に換算してもサラ62才。彼らが子供を産む力がなくなった時に実現したという事である。なぜ神はわざわざ彼らが人間的には生む力がなくなった時にイサク誕生を実現されたのか、それは後に生きる私達に神は人間の限界を超えて御業をなさるお方である事を知らせる為であった。今日、神の全能の力は私たちの別世界で行われるのではなく、私たちが直面する問題の中に示される。
【証】教会員や求道者の劇的救いや癒し…説教者としての私の声帯ポリープー手術なしの癒し(「神である主は私に弟子の舌を与え、疲れた者を言葉で励ますことを教え、朝毎に私を呼びさまし、私の耳を開かせて私が弟子の様に聞くようにされる」(イザヤ50:4 1996.1.1)
非常識は困るが、常識を越えた神の全能の力の世界があるのだ。
「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)


.神は恵み深い

アブラハムは良きこともしてきたが、酷いこともしてきたのである。その不真実と罪にも拘わらず、神は恵みを賜った。私たちはキリストの十字架を信じる者に過去、現在、未来の一切の罪が帳消しにされる恵みを賜った。
【適用】罪の自覚に悩む者よ、赦された罪は忘れなさい。赦された恵みこそ覚えよ!
「私たちは真実でなくても、主は常に真実である。彼は御自分を否むことができないのである」(Ⅱテモテ2:13)


2016年10月9日主日礼拝

「自己中再発防止」創世記20:1-14 音声で聴く。

 

創世記20:1-14  「自己中再発防止」

【序】私が住む近くにめちゃくちゃ可愛いワンちゃんがいるが、そのご主人という方は強面の顔で言葉も掛け難い人だが、ワンちゃんは御主人を目を潤ませるように見詰める。犬は容貌ではなくハートで接するけなげな動物。しかし今日の聖書では美人の奥さんがいるのに悪いハートで酷い扱いをしたアブラハムが登場する。そこからのメッセージ。


.成功後の油断に気を付けよ

前回、アブラハムが甥ロト救出のために今までの酷い仕打ちを超えて神に直談判をしてまで愛の執り成しの祈りをした事を学んだ。その結果、ロトたちが助かった事を見た。素晴らしいアブラハムの愛であり働きであった。その直後、妻を妹と偽り自分だけ助かろうとした失態を思う時、第一に学ぶ事は「成功もまた失敗の元である」という事である。失敗の時の問題は立ち上がれないと思ってしまう絶望と、神と他人への八つ当たりであるが、成功の時もまた油断大敵だ。自信過剰になり他人への配慮を忘れ自己中によって他人を傷つける事である。


.神の御心に聞くことを忘れるな

アブラハムという人は移動するとき神に常に聞く姿勢があった。しかしここでは祭壇を築かず行動している。神に聞く姿勢が崩れているのだ。こういう状態で、自己中という弱さが現れた。どんな立派な人でも生来の自分の知恵だけで人生をやりこなせる力などない。主イエスが「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉による」と教えられた様に、神の御言葉に聞く人生を忘れては、弱さが出てしまうのである。事を始めるとき神の御心に聞く者でありたい!


.不正直は災いを招く

アブラハムは妻サラを「妹」と語った。確かに腹違いの兄妹は事実だが、そう語る動機は自分だけは助かりたいという身勝手な不正直な姿なのだ(11)。この発言はかつてエジプトで手痛い経験をしているのに同じことの繰り返し。なぜ?それは自分は100%嘘をついてはいない、自分は正しいという言い訳(12)をもっているからだ。この自己中の言い訳が有ったから過去の苦い教訓から学べないのだ!
【適用】誰にも何度も悩ます自己中の性質がある。それを繰り返すのは心根に自分は正しいという言い訳がある。故に真の反省ができず新しい命が生まれない。言い訳の根っこ自己中心がある。これは避けねばならない。

【結び】世の中には妻サラのように上からの圧力で弁明できない環境にいる人もいるかもしれない。しかし神がサラを守られたようにあなたを守られるという事だ。信じようではないか!


2016年10月5日主日礼拝

「神をも動かすもの」創世記18:20-33 音声で聴く。

 

創世記18:20-33  「神をも動かすもの」

【序】全能の神をも動かすものが人間に与えられているのをご存じだろうか?いったいそれは何だろうか?その力を知って豊かな生き方ができれば幸いである。


.神をも動かすものとは何かー愛から生まれたとりなしの祈りである

ロトの住む悪徳の町ソドムが火山爆発での滅亡をアブラハムが未然に知った時、彼はその裁きを憂いロト一家の救いの為に祈る。この祈りが神をも動かす事となった。
なぜできたか?親族だったからではない。ロトの不義理を思えば、憎んでこそ普通であり救いのために執り成しの祈りなどできない筈だった。ロトは父が若くして亡くなって以来、叔父のアブラハムに親代わりの世話を受け、仕事も教えてもらい一人前にもさせてもらった。牧畜業の二人に土地選びは生命線。しかしロトは厚かましくも、さっさと良い場所を選び叔父の家から去ってしまう。正に恩を仇で返した。しかしアブラハムは復讐しない。なぜ?!
①復讐は神がなさる事。
②祝福は神から来る事。 この二つを知っている故なのだ!
生きる価値観が変わるとこのような祈りができる。「損得」という生き方だけを生きていると掴んでいるものまでも失う。損得→愛に転換すると驚くべき事が起こる。
【証】米国出張中のビジネスマンが交通事故を起こし、軽微な事故だが相手は500万ドル要求。自分の保険では50万ドルしかカバーできない。6年に及ぶ裁判となった。法外な要求に憤りを覚えていたが「汝の敵を愛せよ」を示され相手の気持も察する事が出来、祝福を祈ったところ、相手は要求を退け5万ドルで和解となった。


.とりなしの祈りを途中で止めてはいけない

アブラハムは神との問答の中で、「正しい人が50人いたらその町を滅ぼされますか」「いや滅ぼすまい」「40人いたら?」「いや滅ぼすまい」…「10人いたら?」「いや滅ぼすまい」。アブラハムはここまできて執り成しの祈りを止めた。ソドムでロト一家が神様を伝えて10人は正しい人がいるだろうと想定したからだ。しかし実際はいなかった。それ故町の滅びを止める事は出来なかった。
【適用】学ぶことは、執り成しの祈りを途中で諦めては行けないということである。今まであなたは自分の家族や友人のためにとりなしの祈りを続けてきただろう。しかし中々結果を見ない事で諦めてはいけないということだ。


.とりなしの祈りには思いを超えて恵みが加わる

ソドムには10人の正しい人がいなかった。それ故にロトも含めた町は崩壊しても仕方がなかったが、神はアブラハムの祈りの中にある思いを知られて、ロト達を助け出された(19:16)。愛のとりなしの祈りは思わぬ恵みをもたらすのである。
【励まし】「幸いな事よ。弱っている者に心を配る人は。主は禍の日にその人を助け出される。主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上で幸せな者とされる」(詩篇41:1、2)


2016年9月25日主日礼拝

「“不幸”に関する不毛の質問」ヨハネ9:1-3 音声で聴く。

 

ヨハネ9:1-3  「“不幸”に関する不毛の質問」  

【序】「ネガポ辞典」をご存じだろうか?これはネガティブな言葉をポジティブに言い換える本。例えば「不味い料理」→「独創的味付け」、「散らかった部屋」→「ワイルド・ディスプレイ」、「顔に出てきた皺」→「ビンテージ・ライン」、「作り笑い」→「筋トレ」。思わずホッとして笑ってしまう。そもそも著者は誰?実は北海道の女子高生!言葉というのは人を傷つける凶器にもなるし、人を癒す薬に薬にもなる…今日出てくる盲人の話には、今日も蔓延する言葉による凶器もあり、人を生かし癒す暖かい言葉もある。お伝えしたい。


.“不幸”に関する不毛の質問(1,2)

生まれつきの盲人について弟子たちはキリストに質問した→「先生、彼が盲目に生まれついたのは誰が罪を犯したからですか」(2)ここに古今東西、誰にもやってくるいわゆる不幸や災いに対する不毛の考えがある。

1.不毛の質問-誰のせいか?
この質問には、必ず自分の不幸には「犯人」がいる。私は誰かの所為でこうなった被害者だ、という見方を不動の事実としてしまう考えである。
確かに誰かのせいで酷い目にあったという事柄はある。しかし分けないといけないのは「誰かの所為で起こった事柄」と「その事柄の後の人生を作った責任」は別であるということ。辛い事柄の後にどんな人格になったか、どんな人生を歩んだかを決めるのは、誰かではなく、自分自身であるからだ。誰かの所為でこうなったという考えにしがみついていると、新しい人生の展望は開かれない。それどころか自分の気になるあの誰かに支配されたままになってしまうのだ。

2.不毛の質問―いつになったら?
いつになったらこの問題は解決するのか?いつになったら病気は治るのか?
いつになったらあの人は変わってくれるのか?この「いつになったら?」という質問も人を不幸にする問いだ。というのはこの問いは自分ではどうにもできない事に、自分の人生の土台を置いているからだ。私たちは自分でどうにもできない事が少なくても二つある。①過去を変える事。②他人を変える事。これにこだわっていると、自分ができる事をしなくなってしまうのだ。自分ができないことを手放し、今自分ができることに集中していくことこそ、人生が変えられていく道である。そして自分ができる事というのは、案外身近にあるものなのである。


.不毛の質問から解放するキリストの言葉

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるためです」(3)
あらゆる「不幸」と思える事柄は、神の業が現れるための舞台だというのだ。私たちが人生に対して「なぜなんだ!いつまでなんだ!」と怒っている時、それは神に対しての怒りとほぼ同じである。そして怒りの正体の根底にあるのは、神よりも私の怒りが正しいという前提である。しかしどんな時でも神は人よりも正しく、また人よりも憐れみ深いのである。そして祝福の人生に作り変えるのである。

【証】不幸な環境に育った青年の作り変えられた祝福の人生の証…

不幸な生い立ちの青年の救いの証
有る教会の礼拝に一人の青年が不安そうに出席した。長い髪、青白い顔、髪の間から疑い深そうに牧師を見つめる姿に、牧師は何か暗い事が潜んでいるのを感じた。礼拝が終わっても帰ろうとしない。夕方まで教会にいたがお茶を勧めるとポツリポツリと身の上を涙ながらに話しだした。それは非常に不幸な話だった。
彼がまだ母親のお胎にいたとき、母親は別の男性と一緒に生活を始め、やがて彼が生まれ、後に弟と妹が生まれた。彼だけが父親が別ということで、悉く差別され、時に虐待を受けた。中学を出ると、我慢できず家を飛び出し、北陸から大阪にやってきた。何とか仕事にありついたが、もともと人間不信があり、仲間と上手く関係が持てず、対立し、職場を転々とした。傷害事件を起こし「臭い飯」も食った。23歳になった時、自分には誰も心を分かち合う友がいない孤独に耐えかねてノイローゼになり、ウイスキーと睡眠薬を飲まなければ眠れない状態になって教会に来たのだった。
牧師は話を聞いた後、次のように聖書の話をした。
1. この世には不幸な境遇を作り変える愛の神がおられ、青年を愛していること
2. その愛の神は人を罪と悲しみから救うためにイエスキリストをこの世に遣わして十字架で罪の赦しと救いの道を開き復活をもって死に打ち勝たれたこと
3. キリストを救い主と信じるなら、不幸を超えて新しい祝福された人生が始まること
その話を終えると彼は素直にキリストを救い主と信じ受け入れた。やがて彼は家路についた。翌日の早朝、教会に電話が鳴った。出てみると彼からだった「先生、朝早くからすみません。昨日はウイスキーも睡眠薬も飲まずにぐっすり眠れたんです、それが嬉しくて、嬉しくて…」電話の向こうで泣いていた。
数年後彼は教会で結婚をし二人の子供にも恵まれ、更にあれほど不幸の原因と憎んでいた母親を呼び寄せて5人で暮らしている。
人生は変わるのだ!


2016年9月18日主日礼拝

「夕暮れ時に光がある」ゼカリヤ14:7 音声で聴く。

 

ゼカリヤ14:7  「夕暮れ時に光がある」  

【序】夕暮れの太陽をご覧になった事があるだろう。地平線に傾く太陽は昼間の時よりも遥かに大きく見える。又その光は眩しいほど輝く。正に「夕暮れ時に光がある」。 しかし今日の御言葉の意味するところは単に自然現象に留まらない。それをお伝えしたい。


.シルバーエイジという人生の夕暮れ時に「光」がある

優れたクリスチャン医師のポール・トウルニエはその著『人生の四季』の中で老年期の課題として二つ語る:
①肉体的衰えー以前、眼医者に通っていた時の話。診察が始まる1時間も前から10人程のお年寄りが陣取っている。仕切っている方が入って来た顔見知りに「あんたどこに行ってたの」「心臓の病で○○病院に通っていて」「良かったあ、○○さんなら安心。△△だともう死んでるよ!」と恐ろしい話。続いて「あんたはいいよ。私の方が病気は重い」と口々に自分の病の告白?!
②孤独と不安。
孤独は人付き合いが苦手でとか口下で孤独になるのではない。人は最後まで支えになる友をもっていないという心細さで誰にも根本的な孤独があるのだ。老人の自殺者も多い日本。そこに光があるのか?→「生まれる前から運ばれた者よ。あなた方が年をとってもわたしは同じ様にする。あなた方が白髪になってもわたしは背負う。私はそうしてきたのだ、尚わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう」(イザヤ46:3,4)


.試練という人生の夕ぐれ時に「光」がある

この試練という人生の夕暮れは年齢を超えて若い人にもある。それはもう自分人生が終わりかと思う人生の夕暮れにも似た時である。日本では病や禍は不幸の星の元に生まれどうしようもない「因果応報」の中にあると考え、時に責められる。しかし否!である。キリストは生まれつきの盲人に「誰が罪を犯したのでもない、神の業が現れるためである」(ヨハネ9:3)と言われ、彼に生きる力と光を与えられた。不安や悩みをもたらす課題は人間の無力を知って愛と救いの神を知るためである。
【証】クリスチャン作家であった三浦綾子さんは病気の連続…若い時カリエスで13年間ギブスで固められ…直腸癌…パーキンソン…しかし講演会で「一寸先は闇と言いますが、私はキリストを知って一寸先が光と変えられました!」と。人生の試練にも光がある!


.死いう人生の夕暮れに時「光」がある

「死」は最大の不安(自身の消滅、集めた物の放棄、別れの寂しさ、死後の裁きの不安…)
 ∴死ぬこと程、人を不安に陥れるものはない。
しかし聖書の福音は、死そのものを打ち破られたキリストがおられ、キリストを救い主と信じる者に死に打ち勝つ永遠の命が与えられるグッドニュース!
ヨハネ3:16、5:24、6:39,40 無力な弟子達が殉教の死をもって伝えるメッセージ。教会が復活のメッセージを作ったのではなく、復活の事実が教会を作ったのだ!
日曜日礼拝はその日の記念日! 正に死に打ち勝つ「永遠の命」という「光」あり!


2016年9月11日主日礼拝

「全能の神」創世記17:1-8 音声で聴く。

 

創世記17:1-8  「全能の神」  

【序】日本には節目の年齢を表現する独特の表現がある。60才は還暦。では99才は何?「白寿」。百という漢字から一を取れば99になるからだ。そんな99才のアブラハムに神は語られる「わたしは全能の神である」と。これはいかなる意味だろうか?


.神は「不可能を可能にする」という意味

神は99才のアブラハムに「子供を与える」と語り、実際翌年の百歳の時に子供を与えられる。妻サラ90才の時。(127才まで生きたサラは現代年に換算すると60才!) しかし人間的には子供を生むのは限りなく不可能。なぜ人間的不可能に見える時まで待たされたのか?→それはアブラハムに「全能の神」を示すため!
アブラハムは「信仰の父」と言われる。後に生きる人類にとって希望の星のような人物。アブラハムを知って「ああ人間的には不可能に見えても、可能にする神がおられる。有限の世界も無限への可能性があるのだ」という希望を世界の人々に抱かせるためである。
【証】教会にも神の驚くべき恵みと力を経験した人が多くいる。直ったとしても植物人間と言われた陽平君も。劇的に信仰告白に導かれた多くの方々や病や癒し等…※リコーの創業者市村清さんは「儲ける有限、儲かるは無限」と言った。商売の世界でも無限の世界がある。聖書によれば人を無限の世界に生かす全能の神がおられるのだ。


.神は「過去の汚点の回復を可能にする」という意味

アブラハムは約束の子を与えられるまでフラフラしどうしだった。神の約束を聞き、無数の星を見せられて、子孫はこのようになると言われて信じた!にも拘わらず妻サラの提案で女奴隷ハガルによって子をもうけてしまう(16:16)。これは神の約束を踏みにじる行為であり彼の汚点であった。神への申し訳なさ、自分の不甲斐なさ、もう神に顔向けできないとの思い…。しかし神はアブラハムに現れ過去の罪を帳消しにし約束の子を与えられる。神は彼に恵みを拒まれない。罪や失敗にも拘らず神はいつでも再出発を可能にして下さるのだ。
「わたし、この私は、わたし自身のために、あなたの背きの罪を思い出さない」(イザヤ43:25)


.神は「祝福された未来を可能にする」という意味

3節には「もうアブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである」神は今までの彼の人生を変えて祝福された未来を提供されるのだ。
【証】20世紀最大の奇跡…米国に一人の少女がいた。父は酒が入ると母に暴力、その為母衰弱死。友人に発見された時、母の両手に彼女と3歳の弟の手が握られていた。弟は栄養失調で母の後を追った。しかし父は少女を見捨て蒸発。少女は孤児院に入れられた。口を利かない、統合失調にもなった。絶望の日々。そんな中ある年、教会の訪問団があった。生まれて初めて聞くキリストの生涯。十字架上の祈り「父よ彼らを赦し給え、彼らは自分のしていることが分からないからです」彼女の心は動いた。信仰を持った彼女は20歳で孤児院を出る。「神様。私をこれから私より不幸の子供のためにお使い下さい」。導かれた家庭に、三重苦の少女、ヘレンケラーがいた。祝福の未来がある。


2016年9月4日主日礼拝

「さあ、天を見上げなさい」創世記15:1-6 音声で聴く。

 

創世記15:1-6 「さあ、天を見上げなさい」  

【序】5年前の東日本大震災以降、度々歌われるかつての大ヒット曲がある。「見上げてごらん夜の星を」人間は科学の力や人間の知恵の無力と限界を知った時、謙虚に空を見上げる事を学んできた。
新約聖書の言葉で人間のことをアンスローポスと言うが「上を見上げる者」との意味。人間は上を見上げるように造られているのだが、なぜか「横」が気になる。又つい「下」を向いてしまうのである。だからこそ今も神は「さあ、天を見上げなさい」と語りかけ励まされる。どの様な時に「天を見上げる」ことが大切なのか神の御言葉を聞こう。


.失望落胆する時

アブラハムは10年前「あなたを大いなる国民とし、あなたが祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」(12:2)と神に語られ、ここまで神に従って来た。しかし国民どころか、一人の子供も与えられていない。「あなたの報いは非常に大きい」(15:1)と言われ、思わず答えた言葉「私には子がありません」(2)の中に彼の心の深い失望と焦りが見える。10年待ったのだ。10年は長い!あなたもこういう苦悩を味わっているかも知れない。神に従ってきたが、聖書の言葉はいつ実現するのかという失望と焦り…。
【証】私の献身の時、両親の猛反対に会い悩んだが、救いを切に祈り神学校に入学した。それから10年後神は祈りに答えて両親を救って下さった。ここに大切な真理がある。それは「神の時間」と「人間の時間」が異なるという事だ。 →「もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク2:3)


.御心でない別の道への誘惑を受ける時

アブラハムは神の約束がなかなか実現しない為に焦り人間的な方法を訴える。「親戚のエリエゼルですか?家の奴隷が跡取りになるでしょう」(2,3) 人生には、神の約束実現が遅いように見え、御心でない別ルートの道を行ってしまおうかという誘惑が来る時がある。人間的方法を画策し問題をこじらせる。サラの提案をのんだ時もそうだった。なかなか神の約束が実現しないように見え、人間的方法で解決する誘惑を受けたとき、思い起こそう。最初に示された御心から外れるな!


.信仰による希望を学ぶ時

神はアブラハムに夜空の無数の星々を見せて、「あなたの子孫はこうなる」と言われた。→「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(6) あなたは何を将来の支えとしているだろうか?人脈、金脈または知恵と才覚?それよりもあなたの未来を確かな祝福に導かれる神の言葉を信じる信仰で希望の未来を持って頂きたい!
【証】41年前駅前伝道開始の朝「わたしは彼らにわたしを知る心を与えよう、彼らは私の民となり、わたしは彼らの神となる」(エレミヤ24:7) 当時はまだ10名に満たない数だったが、大いに励まされたものだ。又会堂建設の時「わたしはこの岩の上にがわたしの教会を建てる」(マタイ16:18) そして実現した。あなたが未来を神の言葉を支えに生きる時確かな希望の未来に導かれるのだ。


2016年8月28日主日礼拝

「幸せを求めるよりも安心を求めよ」ヨハネ14:27 音声で聴く。

 

ヨハネ14:27 「幸せを求めるよりも安心を求めよ」  

【序】映画『寅さん』シリーズの山田洋次監督が「昔は幸せという言葉がなかった。それに代わる言葉があるなら、それは「安心」であった。幸せという言葉が生まれてから、或いは幸福のイメージが出来上がって以来、現代人は不幸になった」と意味深な事を言われた。それはどういう事なのか?今日は幸福を求めるより安心を求めませんか、というメッセージしたい。


.現代の幸福追求がもたらした不安

山田洋次監督は続けて言う「一般的に言って幸福とはお金があって、仕事がバリバリでき、自分のしたい事をやっているというイメージがあるが、アメリカのパーティに行くと、そんな典型的な人にお目にかかる。自信に溢れているというのが伝わってくるのだが、安心の方はさっぱり伝わってこない。満ち足りている筈なのに少しも心の安らぎが得られない。移ろい易い幸福を得るために戦々恐々としているので、どこまで行っても安心を得られないのだ。更にこの種の幸福を追い求めている限り、幸福に届かないと、不安、嫉妬、焦りで心が一杯になるのだ」 まさに現実をよく言い表わしているコメントではないか。だからこそ、幸福追求に振り回されないで安心を得る方が良いのだ。


.平安を得る事こそ究極の幸せ

キリストは最後の晩餐で弟子達がこれから様々な人生の嵐を経験する中で与えられる「平安」について言及し、平安を与えると約束された。
「わたしあなたがたに平安を残します…わたしの平安を与えます」(14:27)
   この平安こそ人生における究極の幸せなのだ。
【例】あなたが飛行機に乗っていて機長からアナウンスが入る。「エンジントラブルが発生しました。できるだけ努力します」そんな風に言われるとパニックになる。誰かが「1億円上げます」「最高のディナーを用意します」「社長の座を上げます」と、この世の幸福と思われることを悉く与えると言われて嬉しいだろうか。何の力にならない。死を前にして何が人生で究極的に大切なものか分かる。【故石原良子姉の証】「あんたはようしてくれる、あんたと同じところ(天国)に行きたいんや!」→キリストへの信仰こそが人生のさなかにも死の時にも魂の平安をもたらす。


.どのようにして安心を得ることができるか

「神を信じなさい」(14:1)―(万事を益に変える)神を信じる平安!
【証】モーセという人がいた。紀元前1500年頃、彼はユダヤ人でありながら不思議な運命の下に40才までエジプト王子として生活する。同国人が過酷な奴隷で苦役を強制されているのを見て、哀れに思い民の解放を実行するが、無惨にも失敗。人殺しまでして逃亡。その後は荒野で羊飼いとして埋もれた生活40年。もうここまでかと思った時、神は権力も富も雄弁も失ったモーセを再び民の解放者として用いられた。その年80才。この事から次の事が言える。今が失意の時であっても、今があなたの人生の全てではない。神はあなたのために素晴らしい人生計画を持っておられる。埋もれていた荒野の40年間もまた後に意味をもたらす(エジプトから約束の地カナンに導くのに40年の荒野の生活をするが、もしモーセが以前の荒野の生活を熟知していなければ都会の民を導けなかった筈。そうすると不毛と思えた荒野の生活に光が射し込む。万事を益に変える神を信じなさい!


2016年8月21日主日礼拝

「恐れるな」創世記15:1 音声で聴く。

 

創世記15:1  「恐れるな」  

【序】今、オリンピックで日本人の活躍が素晴らしいが、女子レスリング界の絶対女王と言われていた吉田沙保里選手は銀メダルに終わった。インタビュに答えて「恐怖心に負けた」と。「恐れ」はスポーツ界のみならず、様々な分野で本来の力を奪ってしまうものである。アブラハムもその「恐れ」に捉えられた。神はどう対処して下さるか。


.アブラハムの恐れ

神はアブラハムに「恐れるな」(1)と語られた。つまり彼が恐れていたから、そう語られたのだ。では何を恐れていたのか?→「これらの出来事の後」(1a)とある。即ち14章の出来事と深い関連がある。強欲で恩知らずのロトはソドムの町に移り住んだが、戦争に巻き込まれ、家族、財産を奪われてしまう。そのニュースを知ったアブラハムは、僕318人を連れてロト救出のため追跡し助け出す。その結果、敵ができ、彼らからの逆襲を恐れたわけである。いわば、良いことをした結果、敵ができてその逆襲を恐れるという問題が生じたのである。
【適用】恐れは悪や不信仰で生じるとは限らない。良い事をした結果生じる事もある。あなたも正しい事をして周りから反発を食い恐れを感じた事があるだろうか。そういうあなたに神は語られる→「恐れるな」(1)と。


.恐れから守るもの

どんな恐れでもその恐れを辿っていくと、恐れの根元にぶつかる。それは「守ってくれるのは、頼りにならない自分しか無いという一人ぼっちの心細さ」である。
自分で何とかやって行けると思える時は恐れがないが、ひとたび自分で守りきれない事がやってくると、堪らない恐れが生じる。そんな時、力と愛に満ちた神は名を呼んでこう仰せられる!→「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である」(15:1b)と。「盾」=敵の攻撃から守る強き盾!
【証】エリシャの時代、敵国に囲まれ、僕たちは恐怖でパニック。エリシャは「恐れるな。私たちと共にいる者は彼らよりも多いのだから」と語り、神に「僕の目を開いて下さい」と祈ると、何と神の軍隊が盾となって守ってくれていることが分かった。恐れとは目に見えることに支配されて、目に見えないところで守ってくださる神が見えない故に生じる心詩篇5:12「大盾で囲むように愛で囲まれる」!


.「恐れるな」と語られる神の意図

神が「恐れるな」と人に語られる時、単に恐れを取り除くだけではない。この言葉は常に恐れに囲まれている人間に今まで経験しなかった新しい祝福された人生のステージへの招きの言葉なのだ。例①エジプト軍に紅海まで追いつめられたイスラエルの民に神は「恐れるな」と語り→紅海を二つに分ける奇跡を示された。 最初のクリスマスの夜、御使いを見た羊飼いに「恐れるな」と語り→救い主の誕生を示された。
【結び】聖書に「恐れるな」という言葉が350程ある。神はほぼ毎日「恐れるな」と人に語られていることになる。恐れに囲まれた時、今までの人間的なあがきを止めよう。神の御言葉を通して新しい祝福のステージを信頼して進もうではないか!


2016年8月14日主日礼拝

「損得のどんでん返し」創世記13:5-18 音声で聴く。

 

創世記13:5-18 「損得のどんでん返し」  

【序】損得というのは私達日常で気にするところだ。例えば果物屋で見るからに美味しそうなマスカットを「一房千円のところ今日は特別セールで二房二千円」と言われて買う人はいないが、「一つ千円のところ三つ千円!」と言われると、そんなに必要でなくても、これは得な買い物と思い買ってしまい後で古びてしまう事も…。世の中には得しそうで損をし、損をしそうで得をする事がある。又人生で損な役回りを強いられる事もある。どうすれば?


あらすじ:得をしたつもりが損をしたロトと損をしたようで得をしたアブラハム

 ロトは叔父アブラハムから教えられた牧畜にも成功し、アブラハムは彼に独立させる。その際土地選択の優先権をロトに与える。ロトは潤った牧草地を躊躇無く選んだ。アブラハムには痩せた土地が残った。しかし20年後、ロトは火山爆発で家財と土地を手放さなければならなくなる。一方損をしたように見えたアブラハムは後にロトが選んだ豊かな牧草地も含めて得るようになる。正に損得のどんでん返し!ここから学ぶ事は:


.恩知らずはいけない

アブラハムは弟が死んだ時からその息子ロトの面倒を見、生活は勿論のこと牧畜業を教え、ロトに今日の成功(5)をもたらした恩人である。なのにアブラハムの申し出(8,9)をよい事に、自分から先に良い土地を選んでしまう。本来はこう言うべき→「叔父さんは僕の親が亡くなってから僕を引き取り生活を支えてくれた命の恩人です。僕が今日あるのは叔父さんのお陰です。僕の方から選ぶなんてできません。叔父さんこそ先に選んで下さい」

ロトは恩知らずなのである。信仰は神に対する態度であるが、恩知らずは真の祝福をもたらさない。(Ⅰテモテ5:4)川柳「渋柿や丸八年の恩知らず」柿でさえなのである。


.目先の利に走るな

ロトが選んだソドムの地は「潤っていた」(10)が、住民は「よこしまで非常な罪人であった(13)つまり、ロトにとってはそこに住む人々が家族に悪い影響をもたらす事よりも、金持ちになることの方に価値があったのだ。そういえばアブラハムには「祭壇」があったが、ロトには「天幕」を張る事しか関心がなかった。

【適用】究極の選択「儲けは期待できるが教会が無い町か、儲けはそこそこしか期待できないが、良い教会と交わりがあり、霊的に豊かな人生を送れる町とどちらを選ぶか?」


.真の愛には報いがある

アブラハムには先に土地を選ぶ権利はあったが優先権をロトに与えた。ロトに不義理に出られたのに文句の一つも言わず平和に分かれるアブラハム。見上げた人物!太っ腹!それができたのは、後にロトの住むソドムの町の災難を心配し神にロト一家の救いのためにとりなしの祈りを捧げるアブラハムに真の愛があったからである。そして後に土地も与えられる事を思えば真の愛には報いがある。

【適用】第二次世界大戦時、ハワイ真珠湾攻撃の総指揮官淵田美津雄中佐と、その真珠湾攻撃を知った米陸軍指揮官ディシェイザーは名古屋爆撃敢行。後に二人とも回心!その回心をもたらしたのは大きな愛!…

(明日8月15日NHKスペシャル番組「二人の贖罪―日本とアメリカ憎しみを越えて」で放送)


2016年8月7日主日礼拝

「人生はやり直せる」創世記13章1-4節 音声で聴く。

 

創世記13:1-4 「人生はやり直せる」  

【序】誰でも人生に挫折や躓きがある。失意に打ちひしがれるのだが、聖書を読んで嬉しく思うのは、どんな挫折にも回復の道があるという事だ。言葉を代えて言えば「人生やり直せる」ということだ。アブラハムは試練の時、頼ってはならないエジプトに頼り、手痛い経験をしたが、そこから回復の道を与えられる。一体何がそうさせてくれるのか、アブラハムに学びたい。


.心の向きを変えた

「エジプトを出てネゲブに上った」(1)

アブラハムの回復の道の第一は「上った」事である。普通「上り」と言えば地方から大都会に向かう道。(例:「東京行」は全て上り)。イスラエルの地から言えば大都会のエジプトは上りであり、イスラエルは下りの筈であるが、聖書は「エジプトを出て(イスラエルの)ネゲブに上った」とある。つまり聖書では人が神に向かう道が「上り」であり、神から離れる道が「下り」である。失意の中にあったアブラハムであるが回復の為にした最初の行動は「神に向かう上り」の道を歩んだ事であった!

【適用】あなたが様々な喪失や失意にあっても、あなたが神を求め礼拝に上るなら、祝福の「上り」なのである。この「上り」には神による回復が備えられているのである! 


.罪にも拘らず恵みを施す神を知った

 「アブラハムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた」(2)

 アブラハムが富んだ理由はエジプト王パロが豊かな富を与えたからであり(12:16)、また騙された事を知っても富を与えて送り出したからであった。しかしこれは理に合わない恵みである。アブラハムのしたことを考えれば、妻に嘘をつかせエジプト王を騙し自分だけ助かろうとしたことは、富を失ってこそすれ、更に増し加わる事は無い筈である。常識的な信仰で言えば、正しい者が恵みを受けるのであるが、ここはそうではない。罪深い者が身に余る恵みを戴く!光栄の極み!

 「罪の増し加わるところに恵みも増し加わった」(ローマ5:20)

【適用】だから罪を犯して良い訳ではないが、真の神は罪の中にも身に余る恵みを施されることをおぼえよう。そして失望落胆しないでおこう!


.祭壇を築き直した

「初めに天幕を張った所、祭壇を築いた場所で主の御名によって祈った」(3,4)

ただ懐かしの場所に戻ったというのではなく信仰の原点に立ち返ったという事!神に導かれて神の声に聞き従ってきた筈であるが、「ここ一番」という試練の時に信仰が生きて働かなかった。その時に必要なことはもう一度人間として、信仰者としての原点に立ち帰ることだ。何がどうしても要る大切な事か?

【適用】そもそも私は裸で生まれてきたのだ。名誉だ、財産だと言って世の力に依り頼んできたけれど、アブラハムがエジプトで経験したように、そこには本当の力がなかった、そう気づいたら、命の原点=神に立ち返る事、神との交わりを回復する事だ。そこから祝福の再出発が始まる!

2016年7月31日主日礼拝

「いつものように」ダニエル6章10 音声で聴く。

 

 

ダニエル6:10      「いつものように」            

【序】ある親子の海岸での会話…。時に、私たちは人から妬まれ、不快な思いをすることがある。ダニエルも人々から憎まれ、ライオンの穴に放り込まれた。彼はその時、何をし、どうなったろう?人間関係に悩まされ、予期せぬ試練に落胆することの多い現代だが、ダニエルから共に学ぼう。

Ⅰ.心を神に向ける

「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。」(10a)文書の署名とは、王以外のものを拝む者は、ライオンの餌食にするという法令のことだ。王は利用されてしまった。「彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。」(10b)故郷を懐かしんでいたか?当時、エルサレムには神殿があった。神が聖別された宮だ。「彼の心が神に向いていた

の意。

【適用】恐れや不安に包まれた時、あなたは心をどこに向ける?ダニエルは周囲の人々に怒り、塞ぎ込んで嘆くようなことはしなかった。窓を開き、心を神に向けた。私たちもそうでありたい。

エリック・バーン(カナダの精神科医)「他人と過去は変えられないが、自分と将来は変えられる。」人の心や現実の問題を変えることは不可能。しかし、自分がそれにどう対処するか(自分の心)は自分で決定できる。また、自分の対応次第で将来は大きく変わり得る。心を神に向けよう!

Ⅱ.いつものように祈る

「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」(10c)信仰のチャレンジを受けたダニエルだったが、彼はいつものように祈り、ライフスタイルを変えなかった。なぜ、そうできた?強靭な精神の持ち主だったからか?祈りを自粛した方が安全ではないのか?

こんな時だからこそ彼は祈った。日々神に助けられ、信仰を強められたからこそ、いつものように振る舞うことができた。こんな時にも、神に感謝した!神との交わりは、彼にとって生命線だった!「いつものように」という言葉から、彼が以下の真理を信じていたことが見えてくる。神が全知・全能であること(人々の計画やライオンさえ支配しておられること)。最善の答えを下さるということ。

【適用】普段から神と交わることがいかに大切だろうか。信仰が試練の只中で確信と平安を与えてくれるからだ。しかし、彼のような信仰は短期間では身につけられない。どんな時にも狼狽えず、彼のように「いつものように」振る舞おう。心を注ぎ出して祈り、感謝をささげよう!

【証】私は実家、神学校、当教会で早天祈祷会に出席し、長年かけて神との交わりを習慣化した。

Ⅲ.神に信頼する者は守られる

穴に投げ込まれたダニエルだったが、彼は何と無傷で助かる。(19-23)なぜ、無事でいられた?「彼が神に信頼していたからである。」(23c)神が彼の信仰を喜ばれ、祈りに応えて下さったのだ。

 【適用】神を信じていても不幸に会うことはある。ダニエルもそうであった。しかし、神はご自分に信頼する者を放置されることはない。必ず、御手を伸べて助けて下さる。あなたにもそうされる!時間を確保して、神の前に静まろう。神と共に歩む人は、大きな祝福を受ける。

【証】小林富次郎はクリスチャンになった後、事業を立ち上げる。しかし、準備が整った時、洪水が起こり、事業も財産も全てを失う。自殺を決意し、身投げしようとした時、ヘブル12:11が心に響く。彼は思い留まり、再び勇気を与えられ、新たな事業に取り組む。現在の会社に至る基礎を築く。

2016年7月24日主日礼拝

「心元気に生きる」使徒の働き3章1-10節音声で聴く。

使徒3:1-10  「心元気に生きる」        

【序】顔の構造を見ると目や口や鼻や耳という感覚センサーは全部前に向かってついている。つまり人間は前方に向かって生きるように設計されている。しかしなぜか心の思いは時に後ろ向きになる事が多いのではないか。顔の構造のように心も前向きになって生きることができれば幸いである。今日の聖書から、「心元気に生きる

生き方について学びたい。


Ⅰ.無いものを悔やむのではなく、有るものを感謝する生き方

「金銀は私にはない。しかし私にあるものを上げよう」(6)

どんな人にも与えられている良きものと、与えられていない不足のものがある。与えられている良きものは神と人のために使うため。与えられていない不足のものは神を求めるためであるが、とかく不足のものに不満を言い易い。しかし、世には全く「不足」の中で挫折感を持たない人がいる。

【証】レーナマリアー長野オリンピックに善光寺でアメージンググレイスを賛美…

久米宏「ボクなんかしょっちゅう死にたいなんて考えるのに、どうして体が不自由なレーナさんはそんなに明るいのですか」「一つはキリスト教信仰のお陰」「それに私、このハンディが好きなんです!」

無い物を数えて不満を生きるのではなく、与えられているものに感謝しては如何か。

 なぜならあなたはゼロから胎を出たのだから。

Ⅱ.受ける生き方ではなく、与える生き方

「金銀は私にはない。しかし私にあるものを上げよう

この男、「運ばれてきた」「置いてもらって」とある。体が不自由な事は気の毒だが、心までもが「もらう事」しかない→「施しを求めた」(3)。どんな人も受けるためにだけ生まれてきたのではない。生まれてきたという事自体、与える事の出来るものをもって生まれてきたのだ。

【証】体育教師だった星野富弘さんの与える人生

元体育教師だった星野さんが授業中大怪我で頚椎損傷。9年の闘病虚しく首から下完全麻痺。ここで人によっては不運を恨み僻みと悔やみの人生もありえたかもしれないが、星野さんは違った。ある日、花を見て「自分でも書けるかもしれない」と思いつき口に筆を加えて花を描き始めた。ミミズがのたくったような字でも絵でもないところから始まったが、今では見事な絵、さらに9年間の虚しいと思えた闘病生活で感じた言葉が人の心を打つ。励まそうなんて考えなかっただろうが見事に与える人生を生きている。どんな中にも与える人生はあり得るのだ。

Ⅲ.尽きる有限の力ではなく、尽きない無限の力を見いだす生き方

 「金銀は私にはない、しかし私にあるものを上げよう…キリストによって立ち上がりなさい」確かにお金があれば色々な物を買える。しかしお金は世界旅行の切符は買えるが自由は買えない。お金は家を買えるが幸福な家庭は買えない。いや幸福も希望も安らぎも永遠の命も買えない。限界があるのだ。キリストこそ無限の力!

 【証】教会員の城田陽平君の証…

高校入学時「制服が怖い」と不登校、友人とバンドを組むが仲間から薬物を勧められ手を染め、不安や幻聴に悩まされる、その前後教会に通い信仰を持つが幻聴の結果家の二階から飛び降り、脳挫傷、片目失明、顔面80箇所骨。1か月間意識回復する事なし。医師「回復しても植物人間を覚悟」しかしお母さんから受洗を提案され、1週間熟慮した結果洗礼実行→8日後意識回復、次々と奇跡が起こり回復し現在の奉仕生活に至る。

2016年7月17日主日礼拝

「恐れで動揺した人」創世記12章10-20節 音声で聴く。

創世記12:10-20      「恐れで動揺した人

【序】アブラハムは信仰の父と言われるが、その彼が試練の時にとんでもない道を外す生き方をしてしまう。それは立派な人を見て劣等感を抱く私たちへの慰めでもあるし、そんな人でさえ道を外すことがあるという警告でもある。


.試練は何であったか

「さてこの地に激しい飢饉があった」(10a)

食べ物がないだけでも試練であったが、更に深刻な問題があった。それは「この地に

飢饉。つまり神に従ってきた場所で飢饉とは!これが一層苦悩を感じさせた。こういう時、神に文句を言いたくなる→「神を信じて従ってきたのに損した!」

しかし聖書はこう語る「主は愛する者を訓練される」(へブル12:5)


【証】ある人が献身して米国に留学したが、言葉と経済のストレスで胃潰瘍になり入院。その夜、夢の中で神に文句を言うと、ある声が聞こえた「ごめん、ごめん、君が洗礼の時どんな事でも従いますと言ったものだから、ちょっと試練を与えたんだが…ごめん、ごめん」考えさせられる話ではないか?

モヤシだと一日で大きくなるが、堅くて強い樫の木は何十年を要する。それだけに風雪に耐え得る。人も豊かな成長の為に風雪を経る。試練に関し神の意図を知る必要がある。


.試練でどう行動したか

「エジプトにしばらく滞在するために下っていった」(10b)

エジプトは神よりもこの世の力に頼る象徴の国(イザヤ31:1)。アブラハムはそこに「しばらく」頼ろうとしたのだ。そこで何があったのか?→11-13節。身を守るために嘘をつき、妻の命を危険にさらし、自分だけ助かろうとする身勝手なアブラハム。家族は最も愛すべき存在だが、最も傷つけやすい存在でもある。まるで今までのアブラハムとは異なる姿を露呈する。なぜ?この醜態の根本原因は何か?言えることは場所を変える度に祭壇を築き祈ってきた姿がここにはない!(12:7,8)。神に聞く「祈りの生活」が失われている!

【適用】信仰を成長させるのも阻むのも「恐れ」である。時に恐れはその問題を実際以上に大きく見せて信仰を失わせる。その為に御言葉に聞き祈りの生活を忘れないでおこう。


.神は彼らをどう守られたか

17節の「サライのことでパロに災害を与える」神に合点がいかないかもしれない。

悪いのはアブラハムではないか!確かにそうであるがアブラハムに禍を下せば、エジプト王はサラを犯すであろう。そうなると家庭は破壊され、後の約束の救い主誕生も反故にされる。それゆえ神は王の行動をストップさせて、一番の弱者であり犠牲者のサライを守って下さったのである。→詩篇12:5

【適用】あなたの環境でこういう横暴さの故に理不尽な行動を要求されている方よ。あなたがNO!と言ってもダメな場合があるだろう。そんな時、横暴な人の支配を越えて神の守りがあるのを信じて受けいれようではないか。その横暴さを知って下さるのは最大の理不尽を受けられたキリストである。慰めがあるように!

2016年7月10日主日礼拝

「あなたは祝福の基」創世記12章1-3節 音声で聴く。

 

創世記12:1-3  「あなたは祝福の基」       

【序】今日の説教題は「…」これはあなたへのお世辞の言葉ではない。聖書は、仮にあなたが成績や能力が大したことがないと言われようと関係なく、あなたは置かれている所で祝福の基となる存在であると語っている。今日から信仰の父と言われたアブラハムの生涯をお語りするが、先ず第一回目にそのことを語りたい。


.あなたの名を呼ぶ神がおられる

私は高3でクリスチャンになるまで毎年神社に初詣に行った。賽銭箱の前に立ち、神を呼ぶかの如く鈴を鳴らし柏手を打つ。そして祈る「神様…」しかしクリスチャンになって分かった事は、生ける真の神はこちらから呼ぶのではなく、神の方から私に呼びかけておられる生きた神!

BC2千年頃、カルデヤ(11:31「後のバビロニア」)にいたアブラム(改名前の名)に、神は出会い彼を呼ばれた→「主はアブラムに仰せられた」(1a)

【適用】神は今もあなたと出会い、声をかけられる。あなたが教会に来た理由には色々な動機があった事だろう(家族、集会…時には問題や病)。それは単なる偶然ではなかった。あなたに対する神の語りかけであった。→ヨハネ15:16


.あなたには離れるべきものがある

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に生きなさい」(1b)

神はアブラハムに父の家を出なさい、と語られる。彼の場合は家であったが、同時にかつては慣れ親しんでいたバビロンの古い因習をも意味していた。

【適用】あなたにも離れるべきものがあるのではないか?自分なんかダメだという束縛された低いセルフイメージ。自分の小さな力に依り頼む小さな生き方!慣れ親しんだ分、離れることに不安があるかもしれないが、それはあなたを縛っているだけで新たな祝福には繋がらない。

【例】詩「ある日のつぶやき」…(別紙参照)


.あなたは祝福の基である

 「そうすれば…わたしはあなたを祝福し…あなたの名は祝福となる」(2)

「あなたの名は祝福となる」とは「あなたは祝福の基です」(英語現代訳)の意味。

あなたの存在そのものが周りの環境への祝福の基だという。神はあなたが受けるだけの人生、世話をされるだけの人生を計画されていない。神はあなたが回りの人々に祝福を与える存在となることを示しておられる。あなたの環境は必ずしもベストではないかもしれないが、神があなたを見込んで今の環境の中におかれた!あなたの環境の中に支配される愛の神を認めたときから、あなたの環境は目的感に満ちた環境となる。祝福の基といってもそんな大それたこと自分にはできないと感じるかも。しかし思い煩わないで感謝して生きる時、それだけで周りを明るくするのだ。

【証】専業主婦であった妻が夫の急病で先立たれた。中学生を頭に3人の子ども。子育ても経済も不安だらけ。心中を考えたが実行できず悶々とした日々。ある日家のポストに教会パンフレット…藁をもつかむ思いで教会に出かけた。じっと聞いてくれた牧師が「大変ですね、でも一日一生です。今日を精一杯生きればいいではないですか」「今日一日だけだったら生きていける」なぜかホッとした、母が見違えるようになり明るくなり子供も救われた!

詩「ある日のつぶやき」


私は長い年月上に伸びる事ばかりを考えて来て

土の中深く根を張ることを忘れていたようです

ひょろひょろと幹ばかり高く伸びて

雑然と枝葉が広がるようになった時

幹や枝葉の重みに耐えられない根の弱さに 私は初めて気が付いたのです

そう気づいた時、私は思い切って枝葉を落とすことにしました

土の中の私の弱い根と細い幹に支えられるだけの僅かな枝を残して、あとはバッサリと切り捨てました

それは、それなりの勇気のいる事でした 

また「もったいないなあ」とも思いました

しかしお陰さまで、今まで目には見えない土の中で弱かった根が新たな活動を始めたようです

枝葉を切り捨てた分だけ、いや、それ以上かも知れません

誰にもわからない根だけが知る静かな充実感をもちながら

 

2016年7月3日主日礼拝

 

「油断大敵」創世記9:20-29 音声で聴く。

 

創世記9:20-29  「油断大敵」       

【序】先月東京都知事が辞任された。彼は東大法科を首席で卒業したエリートだったが、金銭に関する度重なる公私混同での辞任。油断大敵である。しかし翻って考えると人には誰にも弱点がありそれゆえ油断大敵という面があるのではないか。今日学びたいのはあの素晴らしいノアの油断大敵という面である。今日の箇所から学ぶ三つの教訓は:


.成功も失敗の元

箱舟から出て生活を始めたノアは「葡萄作り」を始めた(20)。洪水の後の土壌は肥沃で豊かな収穫!しかしノアは収穫後、彼らしからぬ失態を演じた→「葡萄酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた」(21)泥酔し裸であるのも分からぬ程、前後不覚になってしまった。なぜ?あの敬虔なノアに魔が差したのか?箱舟での束縛から解き放たれた開放感もあったのか?いずれにしても油断大敵!「成功も又失敗の元」なのだ。と同時に、この記事をもってノアの生涯記述は終わることを思えば、晩年のノアの姿は余りに後味が悪い!

【適用】罪に定年制はない。人は、若い時には若い時代の罪と弱さがあり、中年期には中年期の弱さと罪があり、老年期には老年期の弱さと罪がある。ノアにしてこうなのだから、お互い「成功も失敗の元になる」と心しておきたい。


.感謝も悔い改めも忘れた心が禍を生む

ノアは酔いが覚めて、最初にした事は子供達の態度を責める言葉であった(24以降)。自らの醜態の反省ではない。これは今までのノアには見られない「悔い改め」を忘れた姿である。そういえば箱舟から出たとき真っ先にした感謝礼拝をしたノアだが葡萄収穫感謝もしていない。成功の為に一歩一歩上り詰めているときは慎重なのに、上り詰めると自己反省を忘れ、神の声も人の忠告も聞かなくなる危険性があるのを覚えねばならない。霊的生活が崩れているという事だ。

【例】ペテロ三度の否みはいきなりやってきたのではない。主の警告を無視し、ゲッセマネの祈りでは眠ってしまう…こういう伏線の結果の否み!


.他人の恥に対する態度が祝福を決める

父の恥を見ての息子達の態度は対照的である。父の裸の姿を聞いても見ずに上着をかけて覆うセムとヤペテ(23)。それに対し兄達に告げ口するハム(22)(ゴシップの語源)

問題はこの三人に対するノアの言葉(腹いせではなく神の啓示として)→25-27節。

「自分の口を見張る者は自分の命を守り、唇を大きく開く者には滅びが来る」(箴言13:3)

【結び】三つの教訓を見てきたが何と私たちの弱さに通じる事か!しかしキリストは私たちの恥、罪、弱さを知って父なる神に黙って赦しを祈り、励ましを下さる!→「わたしはあなたの信仰がなくならないようにあなたの為に祈りました。だからあなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)

2016年6月26日主日礼拝

「耐えられない試練はない」Iコリント10:13 音声で聴く。

コリント10:13  「耐えられない試練はない」 

【序】こういう題をつけると、自分の人生はほとんど思い通りにいかず、挫折する事が多かった。やっぱり負けてしまう試練もあるのでは?しかしそうではない。それを保証する御言葉がここにある。応援歌のメッセージ伝えたい!


.誰にもある試練現代人の四つの不安)

①健康の不安(健康診断で引っかかって…→死の不安に直結)

②人間関係の不安(近い関係の人と上手くやっていけない)

③自己達成の不安(自分の人生失敗するのではという不安)

④罪責の不安(過去の自分の中に隠している罪の不安)

※こういう不安や試練の為に死ぬ人も多くいる。しかし越え得る道がある→努力とか運勢に頼るのではなく世界で最も深い影響を与えた聖書の言葉→Ⅰコリ10:13


.Ⅰコリント10:13

「神は真実な方である。あなた方を耐えることができないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に逃れる道も備えて下さる」→ここから分かる真理は:

  1. 私達を造られた愛の神は、耐えられないような試練に会わせない。もし神が耐えられないと判断されたなら、別の人又は別の機会に与えられる。故に直面する試練が大きいとしても神があなたなら耐えられると見込んだ上の試練だ。

  2. だから同じ一回限りの人生を歩むのなら、そう信じて進むことだ。その時「逃れの道」も備えられる。


.上記聖句の体験者

 盲目のテノール歌手新垣勉さん証…生後まもなく助産婦の過ちで家畜を洗う劇薬を点眼されて失明。彼が1歳の時、ラテン系アメリカ人である米軍兵の父と日本人母が離婚。父帰国、母再婚、母方の祖母に引き取られる。「将来両親を殺し自分も死ぬ」と決意。その祖母も彼が14才の時死亡。天涯孤独、絶望し、井戸に飛び込み自殺を図るが友人に助けられる、絶望の日々、ラジオから聞こえてきたのが讃美歌、引かれて教会、牧師から聖書のメッセージを聞き、信仰によって勇気と希望をもち、西南学院神学部入学。たまたまボイストレーナーのバランドーニ師に出会う。「キミは日本人離れしたラテン的な明るい声だ。人に勇気を与える。その声はラテン系のお父さんがくれた宝物。感謝すべきだよ」と言われた。憎しみで一杯であった心が不思議な感謝さえ生まれた瞬間だった。この世に「生まれてきた意味がある」と感じられ、その後は活躍に至る。

このような人生があることを知るとき、次のことが言える。

1.試練は長いスパンで見るべきである

2.人生の悲劇も又祝福への伏線である(創世記50:20)

3.その幸福のためには自分を価値づけてくれる愛が必要である

ヨラム王(「愛される事なく世を去った」(Ⅱ歴21:20)とは余りに寂しい!)

口先だけの愛ではなくあるがままのあなたを真に価値づけてくれる愛が必要。

日本公共広告機構「命は大切だ、命を大切に。そんなこと何千回何万回言われるよりも、誰かが本気であなたが大切だと言ってくれたらそれだけで生きていける)→十字架に示されたキリストの愛!

 

2016年6月19日主日礼拝

「希望の虹」創世記9章1-17節を音声で聴く。

創世記9:1-17  「希望の虹」           

【序】直木賞作家で、なかにし礼という人がいる。苗字が同じだけに他人事に思えないが、歌謡界にもヒット曲を幾つも書いた人。波乱万丈の人生で、極道の兄に大金を奪われる事もしばしばだった。更に二度の食道がんの手術。正にどん底を経験してきたが、彼の作詞曲に「わが人生に悔いなし」がある。「たった一つの星を頼りに、はるばる遠くへ来たもんだ。長かろうと短かろうと、我が人生に悔いはない」 私達も人生短かろうと花が無かろうと自分の人生を生き切り「わが人生に悔いはない」と言えるなら幸い。その為には苦しみも悲しみも弱さも罪も万事を益に変える神を信じて希望を持つ事が大切。神は洪水後、虹を示された。希望の虹である。どのような希望か?


.人生再出発の希望

箱舟から出て生活を始めるノアに語られる「生めよ。増えよ。地に満ちよ」(1)

この言葉はエデンの園でアダムとエバに語られた言葉と同じである。更に「焼き肉?焼き鳥?」(3)付き」のプレゼントまで添えて。違うのはアダムとエバはまだ罪を犯す前で、今回は罪を犯した後なのに変わらぬ祝福とは!

【例】プロ野球選手は毎年一回給料の査定を球団と行う。アップもダウンも昨年の成績次第…。

それと同じく、洪水前の人間の罪の重さを査定対象にすれば、祝福がダウンしても文句は言えない。しかし恵みは変わらない!否、更に上!神は罪の後も祝福再生の恵みを下さる!→あなたは人生の再出発など不可能だと勘違いしてないか?


.命の価値回復の希望

カインがアベルを殺すという悲劇の後、神は殺人禁止を語られるが(5,6)、大切なのはその際の理由である→6節「神は人を神のかたちお造りになった」

【適用】少年犯罪が起こると校長先生は生徒達を集めてお話をする。人の命は如何に大切かという命の尊厳について…。しかし一向に犯罪は後を絶たない。問題は、何をもって命が大切かという事を示せないことだ。人の価値を何に根拠をおくか?成績、能力、ルックス?だからこそ自分の価値に不安を覚えるのだ。しかし人の価値の根元は「神が人を神のかたちに従って造られた」つまり人が人を殺してはならない理由は、神がその一人子をお与えになる程に人を愛して下さるという神のかたちがある所に人の価値と尊厳がある。こういう話になると宗教の話という事で処理されるが、人の価値を定めるのに人間存在の根源を語る事なくして有りえない。ここに回復の道がある!あなたは自分の価値を見失って心傷ついていないか?聖書はあなたに神からの絶対的な価値がある事を伝えている!【例】ジャイアンに人間存在を否定される「のび太」にも神の言葉を聞かせたかった!


.救いの希望

「わたしは雲の中にわたしの虹をたてる…全ての肉なるものを滅ぼす大洪水は決してならない」((15,16)

神は滅びからの解放の印として虹を示された。神はその印を歴史上に明確に示された。それが神の御子イエスキリストの十字架と復活である。十字架の主イエスを救い主と信じ受け入れる者に「滅び」からの解放と「永遠の命」のプレゼントを!

【証】小3生のさっちゃんが参観日に出席した母親に「もう来ないで!」母の顔には大火傷の痣があり、級友が嘲ったからだった…しかしその火傷は1歳のさっちゃんをかばっての傷だったのだ…

 

2016年6月12日主日礼拝

最も確かな生き方」創世記8章1-11節を聴く。

創世記8章1-11節 「最も確かな生き方」        

【序】曾野綾子さんはその著『人は最期の日でさえやり直せる』の中で「おもしろい事に、信仰を持つようになると、失敗した人生というものはなくなるのである。それは何をしても失敗しないという事ではない。ある人間の生き方が、常に神の存在と結ばれていれば、かりにいささかの、或いはかなり大きい挫折はあっても、どのような人生にも意味を見いだすことができる。…これはいかなる政治家、心理学者、劇作家にもなしえない逆転劇であり、解放である」と語っている。

今日出てくるノアの生き方は正に神に結び付いている故に最も確かな人生を歩んだ。ノアに学びたい。


.衝動に走らない生き方

150日間、水かさが増し続けた洪水も、水が引き始め、「水が地から引いた」(8:11)と分かってもノアは箱舟から出ない。又「地の表は乾いた」(13)とわかってもまだ箱舟から出ない。出たのはいつか?→神が「箱舟から出なさい」(16)と言われたからである。

【適用】事態が好転しない時には不安があり、逃れたい一心で衝動に走って間違った行動をし易い。しかし最も確かな歩みは、神の言葉に従って行動する事である。

「心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りに頼るな」(箴言3:5)


.生活の最初に礼拝をささげる生き方

「箱舟から出てきた。ノアは主のために祭壇を築き…」(8:20)

今まで箱舟を造れと言われ「はい」。動物を集めよと言われて「はい」。箱舟に入れと言われて「はい」。何でも神に聞き従ってきたノアだが、礼拝は自発的だった!

しかも何よりも船から出て最初にしたことだった。

【適用】あなたがこうして週の初めに自発的に礼拝を捧げる生き方は最も確かな生き方をしているのだ。生活が心配で礼拝などしておれないという方がいるがそうではない。礼拝で「主の祈り」を唱えるが、この祈りの順序では、先ず御名を崇める事が最初、生活の必要は四つ目。なぜか?最初に生活の願いを祈ると益々心配が増幅する。静まって先ず神の御名を崇め感謝することを一番にすると心落ち着き平安が増し加わる。生活の事もそう心配しなくなる。礼拝と生活の優先順位を教えてくれるノアの生き方である。


.神の恵みに生きる生き方

「この地を呪うことはすまい。人の心の思い計ることが初めから悪であるからだ 」(21)人の悪ゆえに裁きを下すというのが理屈だが、神は、その理屈を越えて「だから呪うことはすまい」と言われる!嬉しい恵みの矛盾がここにある。

しかし間違ってはならない。神は人間が受ける罪の呪いを十字架において下し、救い主がその人類が受けるべき呪いを身代わりに受けて下さったのだ。「呪うことはすまい」と福音を示しておられるのだ。これは十字架の故の嬉しい恵みの矛盾!

→Ⅰヨハネ4:10

2016年6月5日主日礼拝

「事が動かない時」創世記8章1-11節を聴く。

創世記8:1-11 「事が動かない時」      16.6.5

【序】北海道の小2の大和君が無事に保護された。捜索にも拘わらず6日間事態が進展せず家族、関係者は不安な日々だったろう…人生には事態が動かないように見える時がある。八方手を尽くしても事態は変わらない。このまま終わってしまうのではないかと不安になる。しかし事態が動かない時、知るべき事がある。今日の聖書から学びたい。


.事が動かないノアの状況

現在セーヌ川でも氾濫し6メートル水位が上がったと大わらわ。まして40日間、耳をつんざくような激しい雨の後150日間水が増え続け(7:24)、山も見えなくなる程(7:19)。その間じっと箱舟の中に閉じ込められたまま。ノアは船内を上り下りして1年。家族の食料、家畜の飼料も少なくなるのに気づく。そんな時、不安がフト頭をもたげる「見るのは全てが覆われた泥水ばかり。一体水は引くのか。食料が底をつくのでは…。果たして船から出られるのか?その前に船内に大量の水が浸入して溺れないか


【適用】私達も事が動かぬ時、不安になるが、事が動かぬ時を聖書的に見るなら、それは人の経験や知識を超えた神に視点を合わせるべき時なのだ。次の人生の祝福のステージが来た時である。故に事が動かぬ時に知るべき事があると聖書は語る。

   

.事が動かぬ時に知るべき事

1.神は心に留めておられる事を知る(1)

「神はノアと…全ての家畜を…心に留めておられた」(8:1)

神はノア家族も動物たちの事まで心に留めておられた。

「心に留める」とは:①不安を知っている ②必要を知っている。

2.神が人が知らないところで、事態を動かしておられる事を知る

ノアには船内しか見えなくて事態が動いていないかに思われたが、船の外の世界では事態が動き始めていた。

「水が減り始め」(8:3)→「船が漂着

((8:4)→水が地から引いた(8:11) 

【適用】私たちはどこを見ているだろうか。色々生活のことを心配しているのだが、それは見える世界だけで一喜一憂しているのではないか。見える世界は無視できないが、見えない世界もあるのだ。そこでは神が動いておられるのだ。

 【例】エリシャの時代、敵に囲まれエリシャの僕は驚愕したが、彼の心の目が開かれた時、自分たちの周りには火の戦車が守ってくれているのが見えた、(Ⅱ列王6)15-17)

恐れは、見えない世界で守っていて下さる神を見ないで、見える世界だけで判断している事から生じる。

3.将来の憂いを取り除く希望

鳩が持ち帰ったのはオリーブの若葉。船の外の世界は洪水で死んだ世界ではなかった。農夫ノアにとってオリーブ若葉はこれからの生活にとって希望の象徴!

【適用】私たちは月曜から土曜日まで「現象」を見る世界で生きている。しかし日曜日は「現象」を越えた世界を見る時!そしてその現象を支配される神によって希望を抱く時!神の視点で物事を判断し、聖書を通して「私の人生大丈夫!」と希望を抱こうではないか!

2016年5月29日主日礼拝

「すべてのことが働いて益となる」ローマ8章28節を聴く。

 

ローマ8:28       「すべてのことが働いて益となる」

【序】クリスチャン用語が、一般社会でも使われている。「バイブル」や「伝道師」など。ところで、一般の諺で聖書に通ずるものもある。「風が吹けば桶屋が儲かる」はそうかもしれない。「物事が巡り巡って意外なところに影響を及ぼし、思いがけない結果を招く」の意で、ローマ8:28と少し似ている。しかし、これは広辞苑によると「あてにならない期待をすることの例え」だそうだ。今日は、私たちがそのまま信じ受け入れることのできる、変わらない神の約束について話したい。

.すべてのことは神の計画の中で起こっている

ローマ8:28の後半に「すべてのこと」とある。この中には、うれしいこと、楽しいことも含まれるが、人が経験する様々な悲しみや苦しみ、痛みも含まれる。しかし、神はこれら1つ1つを無駄になさらず、そこから良いものを引き出して下さる。1つ1つの経験は辛いことでしかなかったとしても、長期的な視点で見るなら、そこから良いものが生み出されるのだ。

【例】創世記のヨセフほど、理不尽な扱いを受けた人物はいない。しかし、神は彼の人生から良いものを引き出された!

【適用】すべてのことは、神の許しの中で起こっており、神は人の想像を超えた計画を持っておられる。神は雀1羽にさえ、心を砕いておられる方だ。ましてや、あなたをどれほどに愛しておられるだろうか。神の計画を信じよう!

.すべてのことは互いに関わり合っている

ローマ8:28は誤って理解されることが多い。「神は私の願い通りのことをしてくれる」とか「良いことばかりが起こるようになる」と解釈するのは間違いだ。「働かせて」という言葉に注目しよう。人生から苦しみがなくなることはない。しかし、苦しみの1つ1つは互いに関わり合いを持ち、歯車のように連動する。それらは、やがてもたらされる祝福の伏線となるのだ。

【証】私はヨセフと同様に大家族で育った。それが原因で貧困、いじめ、孤独を経験することになった。これらは大変辛く、神を知らない子達の方がよほど幸せだと思えた。しかし、私は聖書を通して、神が私に計画を持っておられると知った。ヘブル12:6「主はその愛する者を懲らしめる」とある。12:7には「神はあなたがたを子として扱っておられる」ともある。つまり、過去の様々な苦しみは「神が私を愛するが故の愛の鞭」だと知ったのだ!神が私を「我が子」と呼び、ご自分の子として特別に扱っておられると分かったのだ!貧困、いじめ、孤独はどれも辛い体験だったが、これらは私を神へと向かわせた。これらが私を、福音を伝える働きへと導いてくれた。これらのすべては、私にとって益と変えられたのだ!

【例】ケーキの材料1つ1つは決して美味ではないが、それら1つ1つが混ぜ合わされ、焼かれると美味しいケーキになる

【適用】あなたが受ける苦しみの1つ1つも、互いに関わり合いを持っている。それらすべては、最終的にあなたにとって益となる。神があなたを特別に見込んでおられ、あなたを深く愛して下さっていることを知ろう!

.この約束は誰に与えられているのか

ローマ8:28は、誰にでも与えられている権利なのだろうか。前半部分を読むと、「神を愛する人々」とある。別の角度から言い換えるなら、「神のご計画に従って召された人々」となるが、要するに、主イエスを救い主と信じて受け入れた人々、この方を与えて下さった「神を愛する人々」に与えられた約束だ。このことを知っていただきたい。

【適用】求道中の方々は、心を開いて、イエス様を受け入れてほしい。この素晴らしい約束を自分のものとしてほしい。

救われた方々は、どんな苦しみの中にあってもこの約束を信じてほしい。様々な痛みや重荷、悩みを主に委ねよう。

2016年5月22日主日礼拝

「神は愛である」Ⅰヨハネ4章9、10節を聴く。

 

Ⅰヨハネ4:9?10       「神は愛である」

【序】クリスチャンになる前の私にとって「神」は神社の向こうに置かれているだけで人格的には関係がなかった。やがて教会で真の神は人間が作ったりどこかに置いたりする存在ではなく命の創造者であり神は愛である(8)事を知った。この理解が私を大きく変えて生きる喜びをもたらした。今日はキリスト教の中心についてお伝えしたい。

.愛とは何か

先ず愛という言葉の定義をしておこう。一般的には、愛とは「好き」になる事だと考えられている。例:あの人を愛している=あの人が好きだ。しかし聖書が語る愛は好きという恋愛を意味しない。聖書的に言えば恋愛はエロスというギリシャ語が使われ、聖書の言う愛はアガペという言葉で、元々違う言葉だ。そのアガペの愛を日本語的にしかも日常的に訳し代えると→「大切にする」が最も相応しい定義だろう。

「あの人に愛されている」というのは「あの人に大切にされている」であり、「神はあなたを愛している」は「神はあなたを大切にされている」という事だ。この「大切にされる」という愛は実に大事で、私達はよく「元気が出る、出ない」と表現するが、あなたがたその環境で大切にされている時、あなたに元気が出てくるのであり、あなたがその環境で大切にされていない時、元気が出てこなくなるのである。故に「大切にして下さる」存在を発見するというのは極めて幸せな事だ。

.人の愛と神の愛の違い

愛の定義を「大切にする」事だと語ると、私達も「人を大切にしている」と主張する方もいる。しかしやはり違うのだ。神の「大切」と人の「大切」は異なる。神の「大切」の特徴は→「無条件」しかし人が「大切にする」と言うのは件付きである。

例1:会社で社員を大切にする=能力を持っているあなたが大切の意味。能力なくなればお払い箱

例2:子供同士がケンカして母親が仲裁に入る。「二人ともやめなさい」と中立な言い方をするが、強い右手でわが子を抱くようにして相手に左手を向けて「辞めなさい」。明らかに右手に力が入っている…親の愛は海よりも深いと言うが、それはの子、我が子に限る。条件付きなのだ。

例3:エリートの銀行マンと教養ある女性に一人息子がいたがひきこもりになった。母親は毎日「自分はこれじゃ買い物にも恥ずかしくて行けない」と泣いた。しかしある時教会に行き、自分の姿に唖然とした。「自分は皆にどう思われるか恥ずかしい、と子供の心配よりも世間体しか気にしない身勝手な姿!」

しかし神の愛は無条件なのだ。あなたに学歴があろうとなかろうと、過去に暗い罪と弱さやハンディがあろうと、神は無条件であなたを大切にされるのだ。

.神があなたを大切にされている印

「神はそのひとり子を世に遣わし…なだめの供え物としての御子を遣わされました」(9.10)

神はあなたを大切に思う事を形で表された。その愛はキリストの十字架の中に示されている。ご自分の命を捨てるほどあなたの事を大切にしてくださった。

「なだめの供え物」とはあなたが受けるべき死後の裁きを身代りに十字架にかかり救いを成し遂げて下さったとの意味である、罪の赦しも永遠の命も人生の祝福も!

2016年5月15日主日礼拝

「ノアの箱舟」創世記7章1?16節を聴く。

 

創世記7:1?16       「ノアの箱舟」

【序】現在の天皇の叔父に当たる三笠宮さんは聖書考古学に造詣が深く、発掘調査もし、ノアの洪水の事実性をその著『古代オリエント史と私』で語っておられるが、その実際のところが今日の聖書にある。ノアは乱れた人間社会を神が裁かざるを得ないという苦渋の決断をされた壮絶な時代を経験した。今日は「ノアの箱舟」が語ることについて今日の私たちにも照らしてメッセージをしたい。

.誰にも神の裁きがある

神が愛をもって造られた人間が「親の心子知らず」で、愛を踏みにじる姿に成り果てた→6:5,11,12。人間の体でも腐っていく部分を外科的に取り除くしか命は助からないという事があるが、正に人類の絶望的堕落の世界だった。それ故に40日の大雨をもって人間を裁き、再創造をするという苦渋の決断をされた!→6:6,7 今の世界を思うに神に裁いてもらわないといけないという面がある。国際紛争にしてもテロにしても、また社会の悪質な犯罪など。しかしこれは他人ごとではない。なぜなら聖書に「人は一度死ぬことと死後に裁きがある事が定まっている」(へブル9:27)とあるからだ。私たちも自分を正直に顧みるなら、言葉において行いにおいてまた思いにおいて罪をもっているのではないか。そしそれを思う時、胸を張れない自分の姿を知るのであるが、神はノアの時代にも箱舟をもって救いの中に入るように招かれたように、今日もキリストの十字架を通して罪からの救いの道を示しておられる。何とかして一人でも悔い改めて救われてほしいと言う神の御思いである。

【適用】あなたも愛する者が裁きに服さないように神の愛を何とかして伝えようではないか。私もそんな思いで40年間金剛駅で毎週語ってきた。

.人の務めには神の備えがある

7:2,3で神は清い動物(供え物と食に相応しいの意味)7つがい、清くない動物一つがいを箱舟に入れよ」と命じられた。その中には人間より強いライオンもいれば、象もいる。更には捕まえられない鳥たちもいる、どうやって箱舟に入れることができるか、この務めは不安であっただろう。しかし不安は消えた「神が命じられると動物の方から入って来たのだ」(9節)。正に案ずるより産むがやすし、である。

【適用】あなたにも「こんなこと大丈夫だろうか」と不安に思う事があるだろうが→マタイ6:8「神はあなたがたが求める前から必要を知っておられる」

【証】ゼロからの開拓伝道で生活の支えをどうするかは一つの不安材料であった。しかしこれも不思議な方法で支えが与えられた。知ったことは神は私たちの必要を知っていて下さるという事だ。

.神は罪の中にも恵みが計画されている

洪水という裁きは真に厳しいものであったが、厳しさばかりではなかった。植物や動物の埋没、堆積から今の人類の生活に不可欠な石炭や石油が発生し(ケロジェン起源説)今日の欠かせないエネルギーで人類が生き延びていることを思えば、神の憐れみと計画の深さに驚くばかり!「罪の増し加わる処には恵みも満ち溢れました」(ローマ5:20)

2016年5月8日主日礼拝

「微笑みながら後の日を待つ人」箴言31章25節を聴く。

 

箴言31:25       「微笑みながら後の日を待つ人」

【序】今日は「母の日」。母の歌と言うと直ぐに思い出せる→「母さんが夜なべをして手袋編んでくれた」「雨々降れ々母さんが蛇の目でお迎え嬉しいな」とか感謝される歌が多い。一方「父の歌」となると中々思いつかない。やっと一つ「父よ、あなたは強かった」(思い出されるのは死んでから?!)日本の母の歌は「優しい母さん」が理想。しかしそれ以上に素晴らしい姿があると聖書は示す。と同時に今日の箇所はお母さんだけではない全ての人に語られるメッセージを含んでいる。

.最高のお母さん像

箴言31章は聖書が描く素晴らしいお母さんの姿である。前半は賢い生活術について書き表すが、それ以上に素晴らしい生き方が後半にある。それは何か?
「彼女は…微笑みながら後の日を待つ」(25)何事にも思い煩わない平安な生き方、これが聖書の理想とする母の姿。如何に賢い母であっても、やりくり上手であっても美人のお母さんであっても、ガミガミ、イライラ母さんでは本人も嫌だし家庭にも悪影響。もし家庭で影響を与える母が「微笑みながら後の日を待つ人」になれたら、本人も家族への影響は計り知れない。しかし翻って考えると、母ばかりではない。父親も「将来のことは大丈夫!」と言い、青年も友人に「心配しないで」と心から言える事は素晴らしい事。即ち、母のみならず全ての人の理想像である。

.微笑みながら後の日を待てないのはなぜ?

それは将来に心配事が多いからだ。しかし16世紀の仏の思想家モンテーニュ→「私の生涯は恐ろしい禍に満ち満ちたものに思われた。しかしその実際は起こらなかった。心配事の的中率は1%に過ぎなかった」(『随想録』) 正に経験者語るだ。それでもその1%の心配事の的中率を心配するのが心配性の心配性たる所以。そのために不安を抱くのだ。 しかしどうだろう?
その1%の確率が当たり最悪の事態になったとしても、その最悪でさえ祝福に変える御方がいるとしたら…それは朗報!そんな方がいるのか?→創世記のヨセフは「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを良い事の計らいとされました」(創世記50:20)と語っている。だから心配するな!!という事なのだ

.どうしたら微笑みながら後の日を待つ人になれるか?

「しかし主を恐れる女はほめたたえられる」(31:30)
主を恐れるとは神を畏れ敬う生き方、つまり神への信頼である。人は一分一秒先が解らないから心配するが、将来を御手に握りしかも祝福する神がおられるのだ。その神を信じ受け入れて進む時、将来の祝福を握っておられる愛の神が信頼する者を守り顧みてくださるのだ。確かに世界に悪は存在するが、神はそれさえ造り変えられる。この神への信仰と信頼は将来を憂えず微笑む事ができる。

【証】金剛教会には素晴らしい証を持つ方が多いが、今日は故人のことを語ろう。故佐々木文子姉の救いの証。苦難の中にも神に守られ強められ自然体でがんばられた証…別紙参照

1995年に召された佐々木文子姉の証

九州におられた佐々木さんがまだ40代の時、ご主人が脳軟化症という病に倒れ、心細さと5人の子供をどう育てるか悩みの中にあった時、一番末の娘さんがクリスチャンになり、子どもを喜ばせたいという気持ちと、何か自分の支えを見いだせるかもしれないという期待もあって教会に通いだされた。やがて佐々木さんもキリストを救い主と受け入れてクリスチャンになられた。聖書を読む生活が始まり励まされる御言葉に出会い、心と生活が強められた。特に「耐えられない試練はない」という言葉に強められ、前向きに生きる力を与えられて女手一つで5の子どもさんを立派に育て、社会人として送り出し、親としての務めを果たされた。
その後、息子さんの転勤で九州から一緒に大阪の金剛で生活を始められ、すぐに教会捜しをされ「私は金剛教会が良い」と息子さんたちとは違うこの教会で教会生活を始められたのが70才の時。普通ならもう孫と共にゆっくりと生活となるかもしれないが、佐々木さんは違った。ご近所の方々を自宅に招き神様の愛を伝えたいと家庭集会を始められた。楽しみの一つは聖書の学びの後の「おにぎりのもてなし」その美味しさは格別だった! そんな折、佐々木さんに病が襲う。脳梗塞で倒れられたのだ。3か月の入院で言語障害と右半身不随という重いハンディが残った。それは76才の時だった。教会生活もここまでかと思ったが、懸命にリハビリに励み、乳母車の中に聖書を入れ自分で押して1時間近くかけて礼拝に出席される。それも一番早く来るという教会生活だった。皆そのファイトに恐れ入った。
それだけではなく今度は老人会に入り「杖」をもっている方々への伝道が私の使命とばかりに励まれた。障害に負ける人もいる中で佐々木さんのチャレンジ精神は感動的だった。
礼拝では前から二列目の席で何よりも聖書のメッセージを聞くのを喜びとしながら輝く顔が印象的だった。教会で証し会を開いた時、27人もの家族、親族を信仰に導かれた佐々木さんに「その秘訣は何ですか?」と聞いたところ、「それは家族に親切にすることです」と答えられた。これは多くの人が模範とすべき真理のような言葉となった。また長い人生を振り返って「私一人が頑張ってきたと思っていましたが、あれは間違い。神様のお恵みでした」と言われた。「神は万事を益にして下さる」が口癖だった。
召天も真近かに感じられたのか、病室で「先生、永い間お世話になりました。私のお召ももう近い気がします。先に生きますので、先生もあとからきてくださいよ。」そう言われ、家族に迷惑をかけたくないと願っておられた通り病室で早朝、天に帰って行かれた。84才だった。

2016年5月1日主日礼拝

「人は生まれて死ぬ」創世記5章1?24節を聴く。

 

創世記5:1-24       「人は生まれて死ぬ」

【序】子供に人気のアニメ一休さんは室町時代の禅僧だが「生まれては死ぬるなりけりおしなべて釈迦も達磨も猫も杓子も」と歌った。創世記5章は正にその連続記録→「誰々が生まれて、何年生きて死んだ」と痛いほど繰り返され記される。このメッセージは何か?

.「生まれて死ぬ」の記録の意図するものは何か

「○○は何年生きて△△を生み、こうして死んだ」
聖書はアダムからノアまでの十代に亘ってずっと上記の記録を繰り返す。そこには成功も富の所有もあっただろうが省略する。この意図は何か?この箇所で聖書が強く示すのは、どんな人も死ぬという事!それ故いつまでも残るものを求めていく必要があるという事だ。聖書は私たちにこう語る「いつまでも残るものは信仰と希望と愛である」(Ⅰコリ13:13)いつまでも残るものを追い求めよう!

.長寿記録をどう理解するか

千年近い長寿を「昔のカレンダーは1年が現代と比べ十分の1位の長さだったのではないか」と考える人もいる。しかし十分の一なら子供の生まれた年が早すぎる→アダムは13才で子を得(3)、マハラルエルは6才半で子を得た事になる(15)

※同じカレンダーでもノア以降はガクンと寿命が下がる(11章参照)ノアの大雨の時「水の源が悉く張り裂け天の水門が開かれた」(7:11)
(気象学的には大気圏のオゾン層が裂け紫外線が一気に地球上に入ったとの意味。紫外線を浴び過ぎると寿命を縮める→赤道下の人々)

※今日の平均寿命を基準として解釈するが、当時は空気汚染も食物汚染もなく、生命力は今日より遙かに優れていた筈。先ず読み方として聖書が歴史というなら事実として読み、譬え話というならそう読む素直な姿勢が大事。

.エノクの生き方が示すものは何か

1.この世の他に、死後にもう一つの世界があることが証される。
「神が彼(エノク)を取られたので、彼はいなくなった」(24)
人の一生は煎じ詰めれば○○年生き死んだ」だが、聖書は虚しく終わるこの世を超えて神に引き上げられるもう一つの世界があることを示している。死は最後で絶望ではない。死は神が最高の素晴らしい世界に招かれる時が来た時である。

2.途中で人生を改める幸い
「エノクはメトシェラを生んで後、三百年神と共に歩んだ」(22)
エノクの一生は365年。そのうち神と共に歩んだのが300年。つまりメトシェラを生んだ後、彼は神を信じ神に従う人生を始めたのだ。何の理由かは解らぬが、エノクは人生の途中で心を翻して創造者である神を信じ神と共に歩む人生をスタートしたのである。
【適用】何の理由であっても、人生の途上で神無き世界から神を信じ神と共に歩む決意をする代表者がここにいる、あなたもそうすることをお勧めする。

2016年4月24日主日礼拝

「人生の嵐に悩む時」マルコ4章35?41節を聴く。

 

マルコ4:35-41       「人生の嵐に悩む時」

【序】人生、スイスイと行ってほしいが、現実は様々な嵐が起こる。そんな時「これからやって行けるか?」と不安に襲われるが、聖書には「恐れるな」「心配するな」という言葉が360回も出てくる。1年は365日であるから神様は私達にほぼ毎日「恐れるな」と語っておられる計算になる。それ程、恐れに囲まれる事が多い私たちに神の励ましがあるという事だ。ぜひ今日の聖書から神のメッセージを受け入れて頂きたい。

.自分の経験が通用しない嵐がある

キリストの弟子達は漁師であり湖のプロであったが嵐に会い「どうしてそんなに怖がるのか」(40)と言われた程パニックになった。私達も人生で自分の経験や力が通用しない人生の嵐を経験する。多くの人と接し誰にもある三つの人生の嵐: 1.今死んだら困るという健康の不安…結構診断で引っかかると堪らなく不安 2.一番近い人と上手くやっていけない人間関係の不安(親子、夫婦兄弟、友人、職場関係) 3.自分は成功しないのではないかという自己達成の不安…

.人生の嵐の時、してはいけない事

1.自分で運命を決めてしまう事「溺れ死にそう」(38b)
世の嵐に囲まれる時の悪い考えは、自分の将来を勝手に滅びると決めてしまう事。→「私達が溺れて死にそう」(38)(原語―死に向かっている、との意)弟子達は「滅びる」と断定しているが、そうではない。人間の未来を決定するのは神なのだ。
【証】自分はダメだと劣等感に陥る牧師の話…ダメだとかダメでないとかを決めるのは神なのだ。自分で自分を決めるのは一種の高慢なのだ。ダメな者を承知の上で用いられる神を受け入れよ。

2.僻みに捉われる事「何とも思われないのですか」(38)
恐れの時、頼れるものを失うと不安になり、他人を恨み僻み易い。自分はどうせ顧みられる価値がないのだ、と。しかし自分の価値を自分で決めるからフラフラするのだ。神を見上げよ!十字架の愛は最高の愛があなたに!(イザヤ43:4!)

.嵐を沈めるお方がいる

「黙れ。静まれ。すると風は止み大凪になった」(39)
私達は人生の嵐を沈める力はなく慌てふためくばかりだが、感謝な事にキリストは天地創造された神の御子である方だから、その手の作品である自然を支配できるお方!しかも私たちと同船し「嵐」を沈めてくださる→7。主イエスを信じよ!
【証】Yさんの経験…生きがいは仕事、支えは健康と家族。支店長になり3か月目、心筋梗塞で一命を取り留めたが、元の様にバリバリ働けない身体になった。やがて退職を迫られ。悶々とする日々、ラジオ福音放送を通し聖書を読み始めた。私にこう言われた「仕事も健康も当てになりませんね。病気になった事は辛かったですが、健康の時には得られなかった人生の支えと安らぎを見出して本当に嬉しく思っています!」
【励ま】心配性の方への励まし…主は「思い煩うな」と言われたが中々そうできない。何度も委ねた積もりが又煩い。自分は小さな信仰だと嘆く。しかし主にしてみれば心配などどこ吹く風という人よりも、心配ばかりする私たちの方が「よし分かった!任せなさい」と仰り甲斐があるだろう!

2016年4月17日主日礼拝

「神に祝福された印」創世記4章17?26節を聴く。

 

創世記4:17-26       「神に祝福された印」

【序】世の宗教では神の祝福の印を「商売繁盛、無病息災、立身出世」と言う。しかし聖書のザアカイはそれらを得たのに少しも幸せではなかった。どうも違うのではないか?今日の箇所からカインの子孫とセツの子孫の歩んだ道から「神に祝福された印」について学びたい。

.カインとその子孫の目指したもの

弟殺しをしたカインはエデンの東に妻(おそらく妹)と住んで…

1. 町建設(17)=労働に励んだ
エデンの園のような庭ではなく村でもない→「町」建設に励んだ=労働に励んだ。時に労働は悲しみを忘れさせてくれる。しかし労働に逃げるという面もある。カインは考えなければならない事に目をつぶり仕事に没頭した。

2. 英才教育に励んだ
17節―カインの最初の子「エノク」(「初め」の意味)全てを水に流して出直したかった願いが解る―続いて産まれる子供に付けた名前から英才教育に励む姿が解る→18節「イラデ」(「都会人」)「メフヤエル」(「不死身の男」)、「メトシャエル」(神のような男スーパーマン)「レメク」(王者)→立身出世、才能教育!しかし神抜きで神の様になろうとするのは、後のバベルの塔に見るように頭打ちをする。

3. 豊かさの追求に励む
豊かさの追求―「ヤバル」(20)(牧畜業の先祖)「ユバル」(立琴と笛の先祖-芸術まで生まれている)。22節「トバルカイン」(青銅、鉄=武器の先祖)。皮肉にも文化、文明は無神論の世界で発達したのだ。最後は24節のレメクの歌で終わる。自分の力を誇り、カインを攻撃する者は7倍の復讐なら、自分には77倍の復讐だと言う。これは強者の驕りでしかない。
※これは繁栄かもしれないが神の祝福の印とは言えない!

.セツとその子孫の生き方

1 アダムとエバは二人の子を失う悲しみを通して「謙遜」を知った。
名前「セツ」(「授かる」の意 「エノシュ」(「儚さ」の意)

 その子孫は「主の名によって祈ることを始めた」(26)

.神が祝福される印

セツの子孫には特筆すべき繁栄も豊かさも文明の発達もない。書くべき事はたった26節の1節だけ。悲しみや死を通して謙遜を知り主の名を呼ぶ祈りの生活を知った。これこそ豊かさや繁栄に勝る神の祝福なのだと聖書は語るのだ。
【適用】あなたは豊かさを失い悲しみを経験したかも知れない。しかしあなたがこうして「主の教会に来てただ主を礼拝し」「祈る」ことの中に、あなたが祝福された印がある!∴落ち込むことはないのだ。これこそ神が祝福された印なのだから!

2016年4月10日主日礼拝

「涙の谷を過ぎる時も」詩篇84章5?7節を聴く。

 

創世記4:1-16       「問題の人間と人間の問題」

【序】今日の聖書に「涙の谷を過ぎる時も」とあるが、この涙の谷は全ての人が通る谷ではないだろうか。特に家族を天に送る経験というのはその最大かもしれない。或いは今日集われた方々にとっても試練という涙の谷をどう乗り越えていけばよいのか悩んでいる方もおられるかもしれない。そこで聖書からの励ましをお伝えしたい。


.涙の谷を通る理由

涙の谷を歩んでいる時、色々と理由付けを聞かされる。「因果応報」「心がけが悪かったからだ」 (三浦綾子氏は入院中ある布教師に肺病になったのは素直に「ハイ」とい言わなかったからと言われ深く傷ついた) しかし聖書はそうは言わない→「そこを泉の湧くところとします」(6)つまり、あなたが涙の谷を通った理由は「泉の湧く生涯」への招きだったのだ。神の御心は、涙が癒されるだけではなく、その経験を通して、あなたが周りの人々を慰める存在に導くという経験のためなのだ。【証】1985年日航ジャンボジェット機墜落で五百人以上が死んだ。クリスチャンの奥さんは夫を亡くし一過性の鬱、最も慰められたのは八百屋のおじさん「奥さん大変なことになりましたね。言葉もありません。私、野菜をもってきました、体を大切にしてください」と涙をポロポロ流された。

.涙の谷をどう超えていくか

1.過去に原因を探すのをやめましょう
大きな試練に直面すると「どうして私が会う?」と嘆き、色々とその原因を探し始める。しかし大抵原因探求は当たらない。また仮にあたっていても、時間を取り戻せないのだから原因探求は解決しない!

2.思い煩いを捨てましょう
私達は基本的に心配性のところがある。その中で健康に関する事が最大の心配かもしれない。キリストは「心配したからと言って僅かでも寿命を延ばすことができようか」と言われた。人は病気では死なない。人は寿命で死ぬのだ。神の時が来ないならどんな重い病でも死なないし、神の時が来たらどんなに健康でも死ぬ。
【例】30歳の健康診断で癌を疑われそれ以来周りに自分は癌で死ぬと言い回っていた。死んだのは72才で肺炎。

3.将来に神が導かれる最善を信じましょう
聖書に素晴らしい言葉がある。「神は全ての事を働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)とある。信じて頂きたいのは私たちを愛しておられる神はあなたの人生の苦しい事や悲しい事をひっくるめて万事を益に変えてくださるのだ。

.泉が湧く生涯の秘訣

「何と幸いな事でしょう。その力があなたにあり、その力があなた(神)にある人」(5)
「あなた」とは私達を造られた愛の神。悲しみも苦難も益に変えて下さる真の神。
∴神を信じ神と共に歩むことが大切なのだ。苦難も意味が分かる時が来る
【証】黒柳朝さん…息子の死別で神信仰を失ったが、20数年後、末の息子の結婚式で突如閃いた一つの思い「不幸な出来事や試練は避けては通れない事こそ生きている証なのだ」ここから信仰を取り戻した。同じ一回限りの人生なら、恨みや嘆きで終わらず、希望をもって自分なりの泉を沸かせる生涯がある事を信じて進もうではないか!

2016年4月3日主日礼拝

「問題の人間と人間の問題」創世記4章1?16節を聴く。

 

創世記4:1-16       「問題の人間と人間の問題」

【序】評論家の小林秀雄が「聖書は問題の人間について書いているのではなく、人間の問題について書いている」と言った。人殺しするような人間は問題の人間であるが、人間である限り「彼奴なんか消えてなくなればいい」と思ってしまう、これは誰にもある人間の問題である。聖書には次々と問題の人間が登場するが、それを自分とは関係ないとするなら、聖書を読めていないことになる…弟殺しをしたカインは問題の人間だが、これを通して人間の問題について読みとることが大切である。今日はカインに見る人間の問題とその人間に対する神の深い憐みを学びたい。


.カインに見る人間の問題

1. 神への捧げ物に対する態度
カインは農夫だから収穫の捧げ物を、アベルは羊飼いだから羊を捧げた。捧げ物に問題はない。しかし献げ方に問題があった。アベルと比較するとよくわかる→「アベルは羊の初子の中から、それも最上の物」(カインはそうでないとの暗示)。第二版→「アベルは自分自身で」(カインは代理?と暗示。映画「天地創造」でカインは捧げものを半分に減らして捧げた)→アベルは立派だったがカインは神に対して恥ずかしい者であった。

2. アベルを妬み殺した
カインは8節でアベルを野に呼び出し世界最初の殺人を犯す。弟殺しをするカインは問題の人間であるが、殺人の原因は「妬みと憎しみ」であった。これは人間の問題である。それゆえ第1ヨハネ3:15には「兄弟を憎む者は人殺しです」(15)つまり、聖書は憎しみが殺人罪と同罪である事を示している。殺人には凶器によるのもあるが、言葉、目つき、態度による殺人もあるのだ。
【例】富山のいじめ事件、女子中学生自殺…人は刃殺でなくとも殺しうるものを持っている!

3. 罪を謝らない
罪を詫びない。私たちも日常で謝罪する事の実に少ないものではないか。自分の過失に気づかないのではない、気づくが謝らないのである。教養をもっていても学位をいくつも持っていても解決できない問題がここにあるのだ。有島武郎は「カインの末裔」という小説を書いた。我々もカインの末裔なのだ。しかしそう自覚した時神の光が差し込む!

.カインに対する神の憐れみと救い

神は弟殺しの兄カインに対して「カインを殺す者には7倍の復讐を受ける」(15)とされた。これを「寛容すぎる。アベルが可哀そう。カインの方が悪いのに」と責め立てるのは、自分がアベルの側に回って読んできているからである。しかし果たして私達はアベルの側に回れるだろうか?私達もまた「カイン」の末裔ではないのか?それを自覚する時、カインの如き罪人である自分をも哀れに思いが禍いと裁きから守られる神の驚くべき恩寵に、ただ感謝する以外にないであろう。
【適用】カインを怒りの復讐から守るその「しるし」は、やがて現れる神の御子の十字架による一方的救いをも予表するものである。私達が当然受けるべき神の裁きを身代わりに受けて下さった神の御子こそ罪を自覚した人の救いである。

2016年1月?3月

2015年