第113回 2012年2月の言葉
「豪雪で守られたとは!」音声で聞く
今年の冬は寒波が激しく、北海道や東北で雪による被害が連日報道されています。心からお見舞い申し上げます。しかし今日はその雪で守られたお話をしたいと思います。
第二次世界大戦の時、ポーランドのある小さな村に恐ろしいニュースが飛び込んできました。それはドイツのヒットラーの軍隊が辺り一帯を一網打尽に攻撃しにやってくるというニュースです。村の人々は怯え、その村の教会に集まりお祈りの時を持ちました。その中でひとりの少女が詩篇5:12読んだのです。
「主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾を囲むように愛で彼を囲まれます」
村の人々は恐怖と不安の中で眠れぬ夜を過ごしましたが、この聖書の言葉に励まされ、神の守りをひたすら祈り求めつつ一夜を過ごしたのです。やがて次の朝、まだ薄あかりの中、外に出てみますと、どうでしょう。家々を囲む木立に一晩で豪雪が降り積もり、村の教会はじめ家々がスッポリと囲まれていたのです。そればかりか辺り一帯銀世界でその境目も分からない状態でした。しかし道には何百と靴の足跡がついていたのです。軍隊は深夜に確かにその村を行進していったのです。ただ回り一帯の真っ白な木立の向こうに家々があることが分からぬままに通り過ぎていったのでした。神様は大雪を降らせて、村の人々を「大盾を囲むよう囲まれ」たのでした。
神様は子供であれ、大人であれ、神様に依り頼む者を守り支え、時には「囲い」を設けて覆ってくださいます。
あなたもこのような愛の神様をお知りください。またいつでも教会の礼拝にお出かけください。心から御案内いたします。 牧師 中西正夫
第112回 2012年1月の言葉
「あなたの人生の祝福計画」音声で聞く
あけましておめでとうございます。昨年は日本全体が大変な試練を経験した年で、今なお被災地の方々には困難な生活が強いられておられます。これを聞きまた読んでくださるあなたの人生もまた厳しいものであったかも知れません。
そんな昨年を過ごした私たちですが、今日お読みしたい聖書は次の言葉です。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているかだ。-主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29章11節)
この聖書を取り上げたのは、昨年は辛い一年だったので、今年くらいは何か良い聖書の言葉を選びたいから、というような場当たり的な意味でお読みしたのではないのです。この聖書の言葉の背景は、イスラエルの民が70年間も国を失い、家族を失い、自分の名前まで変えられてバビロニア帝国の捕虜となって連れ去られるという決して忘れられない悲劇の「バビロン補囚」と呼ばれる時代の正に真っ最中で語られた神の言葉なのです。民はこれから始まるバビロンでの不安で恐ろしい生活に怯えていたことでしょう。全く将来も希望も見えなかった時に、神は驚くべき事を語られました。それは70年後に解放が告げられ、故郷に戻り、平安な日々が待ち受けていることを示されたのです。エッ?ホント?と疑ってしまうような御言葉です。しかしこの嘘のような夢物語のようなことが実際歴史に起こったのです。ペルシャ帝国の登場でバビロンは崩壊し、その初代皇帝クロス王による解放と国に戻る帰還許可、更には神殿再建許可と続く歴史の事実です。
この歴史の事実をふまえて、神は私たちに今日も語られます。「あなたの将来はわたしが計画している。平安と将来と希望の計画である」と。
神を信じていきませんか。神を知らなくて元々の人生であるとするなら、もしあなたが神を知って豊かな人生を体験するなら、これは最高ではないですか。あなたの祝福を祈っています。 牧師 中西正夫
第111回 2011年12月の言葉
「たとい山々が海のまなかに移ろうとも」音声で聞く
早いもので今年も12月を迎えました。この一年を振り返って、やはり忘れることができないのは、3月に東北で大地震と津波による未曾有の被害があったことです。多くの人々が津波に飲まれ、家々は流され、町は一瞬にして破壊されました。更には原発の恐怖が今なお日本を覆っています。営々と築き上げてきた財産も家も愛する家族も失うという悲劇の前に、人間の無力と嘆きを痛感します。 いったい何を支えにすればいいのでしょう??? 今から3千年ほど前、66巻ある聖書の一つに『詩篇』が書き加えられました。
その中の一節にこうあります。
「神は我らの避け所、また力。
苦しむ時、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。
たとい、地は変わり、山々が海のまなかに移ろうとも。
たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、
その水かさが増して、山々が揺れ動いても」(詩篇46篇1-3節)
この詩篇の書かれた時代にも、同じ地震や津波があったのでしょうか。
それを経験しているかのような表現です。とすれば、財産も家も家族も失ったかも知れないのです。そんな中で詩篇の作者は、人間的に依り頼むことの虚しさの中で、創造者である神、全能の神こそ「避け所であり力であり、苦しむ時、そこにある助け」だと告白しています。
人生にも同じ様な「騒ぎ立つ」経験をする時があります。三浦綾子さんというクリスチャン作家がおられました。青春時代に13年もカリエスのためにギブスに固められ、更には人生の後半になって直腸ガンやパーキンソンという重い病の連続の生涯を送られましたが、「氷点」に始まるベストセラー80冊近い本を書き、多くの方に深い感化を与えられたのですが、この方が講演会で開口一番こう言われました「一寸先は闇と申します。しかし私はイエス・キリストを知って、一寸先が光と変えられました」と。
あなたもこの不安な時代に、また一年のしわ寄せが来やすいこの12月、教会に出席され、聖書を通して揺らぐことのない確かな生き方を見いだされますようにお祈りいたします。 牧師 中西正夫
第110回 2011年11月の言葉
「仏教の法事とキリスト教の記念会」音声で聞く
先日召天された教会員の記念会がお宅で行われました。ご家族にはキリスト教のことをご存じでない方もおられましたので、その中で、仏式で言う「法事」と、キリスト教の「記念会」ではどう違うのかについて以下のことをお話しいたしました。
お釈迦さん自身は死後のことを語っておられないのですが、弟子たちがお釈迦さんの死後は、極楽に行かれたであろう、そうあってほしい、と法要を行いました。インドでは7回忌を持ちます。それが中国に伝来されますと、今度は7回では足らない、10回忌となります。それが日本に渡りますと13回忌と、数がどんどん増えて行きます。つまり仏教では開祖のお釈迦さんでさえ解からぬ死後の世界に、「どうぞ死者が極楽往生して下さい」と祈り願うところの法要、それが仏教の法事であるわけです。ところが、キリスト教の記念会はまるで違うのです。死後の世界はかくあってほしいという単なる願いではなく、明確な天国という希望の世界に行くことができて感謝でした、という感謝会、それがキリスト教の記念会なのです。
勿論それには根拠があります。キリストが十字架にかかられた後、三日目の日曜日に死から復活され、その証人達が殉教をしてまでキリストの十字架による救いと復活を世界に宣べ伝えていった程の重い事実で裏打ちされています。
そして何よりキリストが言われた力強い言葉がこうあります。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)
この約束を信じることから、死後の希望が生まれるのです。
私自身牧師として何度も教会で葬儀、納骨、記念会を司式してきましたが、明確な希望をいつも感じてきました。あなたは死後に希望がおありですか。ぜひ考えてみて下さい。祝福をお祈りしています。 牧師 中西正夫
音声で聞く
第109回 2011年10月の言葉
「祈らなくても神はご存じなら、なぜ祈る?」 音声で聞く
以前求道者からこんな質問を受けました。
「僕は京大の一回生ですが、仏教研究会の人から『祈るということがキリスト教にある以上、偽りの宗教だ。なぜなら完全に神を信じているなら、祈る必要など無い。神は全てを知って答えて下さる筈だからだ』という訳です。その理屈に賛成したくないのですが、そうとも思えるのです。一生懸命祈れば祈るほど、神を信じていない、というパラドックス、この矛盾を説明して下さい」
これは私自身も以前、感じていた疑問でもあったので、気持ちは分かるのですが、この間違いの元は、「祈り」とは何か、という理解の欠如です。つまり、仏教研究会の人の考えでは、
「祈り」=「願い」という定義で理解しているのですが、「祈り」=「願い」ではありません。勿論その要素があるのは事実ですが、基本は:
「祈り」=「神との対話」なのです。
人間の側から一方的に神に向かって願いを要求をすることではなく、神の素晴らしさを讃える賛美や、神の恵みに対す感謝や喜び、また反省も含めた悔い改めの祈りなど、「神との対話」なのです。確かに「願い」だけをいえば、キリストが言われたように、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要を知っておられるからです」(マタイ6:8)という真理があるので、安心しながら神に委ねつつ「願い」を捧げるようになるでしょう。
あなたが信仰者として、また求道者として「祈り」に関して迷っておられることがあるなら、このメッセージを参考にしていただければ幸いです。神様の祝福があなたにありますように。
牧師 中西正夫
第108回 2011年9月の言葉
「延命」にまさる「永遠の命」 音声で聞く
この原稿を書く前日、教会員のある婦人から電話が入りました「入院している主人が危篤状態に入ったと病院から連絡が入りました」…。そのご主人は3年前に信仰告白と共に洗礼を受けられたのですが、その後も病気の連続でした。今回は動脈瘤破裂の危機の中で奇跡的に助かられましたが、その後の闘病生活の中で他の病気が見つかり危篤状態に入られたのでした。それでも手術をするかすかな道がなかったわけではないのですが、助かる保証はありません、ご家族は苦渋の決断の中から、信仰によって救いにあずかったそのご主人に成された神様の恵を深く思い、手術をしないで、痛みなく生涯を全うする道を選択されたのでした。連絡をいただいて私は直ぐ病院に駆けつけ、集中治療室で、そのご主人の耳元でヨハネ14:1の御言葉を読みました。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住まいがたくさんあります。…わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしの元に迎えます」
そのご主人は言葉を発する力がない中ですが、涙目で聞いておられました。
そのご主人に信仰を与え、やがて病から解放し、素晴らしい永遠の命の世界に導いてくださる神様の愛と恵みを深く思わされたしだいです。
医学の進歩と共に「延命」を計るのは当然ではあるでしょう。しかしどんなに処置を施しても、死そのものに勝利をすることはできません。「延命」に勝る「永遠の命」こそ素晴らしい死に打ち勝つ勝利の道ではないでしょうか。
どうぞあなたもまたこのような素晴らしい救いが聖書に記されていることを知られ、求めて行かれますように祈ります。
牧師 中西正夫
第107回 2011年8月のことば
「人は最期でさえやり直せる」 音声で聞く
淀川キリスト教病院の医師として活躍し、大阪で最初のガンの末期患者のためのケアー施設「ホスピス」を開設された柏木哲夫さんが書かれた本に『愛する人の死を看取るとき』がありますが、こう書いておられます。
「ホスピスで最後のケアを受ける患者さんの平均在院日数は約一ヶ月である。不安や恐れにおののいていた患者が立派に死を受け入れるまでに人間的成長を遂げる事がある。…人間の強さにまぶしさを感じることさえある。人は死ぬまで成長すると、つくづく思うのである」
何と言っても最大の不安、悲しみ、恐れは「死」でありましょう。元気な時は、やれお金だ、地位だ、健康だと高をくくっていた方が、死の前には何も通用しない現実におののかれるのです。
あなたはイザとなった時何を支えにしておられますか?
確かに私たち人間はどんな人も全てを無惨にも奪う死の前には余りに無力です。しかしそんなとき聖書を通して死に打ち勝つ永遠の命への希望を見いだすことができるのです。聖書の言葉にこうあります。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである」
(ヨハネ3:16)
私は牧師として多くの方の死を看取ってきました。その中で、たとえ重い病に倒れることがあっても、最後の最後でまるで大勝利のように「死に打ち勝つ永遠の命」への希望に溢れて生涯を終える方のすばらしい死も見てきました。正に「人は最期の日でさえやり直せる」のです。
日本の夏はいわゆるお盆休みでふるさとに帰り法事を営む方も多くおられるでしょう。自分の死を考える良い機会です。そして最もよい備えを聖書に見いだされるようお勧めしたいと思います。
牧師 中西正夫
第106回2011年7月のことば
「大自然の作者」 音声で聞く
7月には休暇で自然に触れる方も多いだろうと思います。紺碧の青空やモクモクと沸き上がるような白い雲、どこまでも続く地平線、夜空に輝く満天の星々そして美しい花々…それらはストレスに囲まれた私達に、ひと時の癒しをもたらすオアシスのようです。
ところで幼い頃は、太陽も地球も月もはじめからあったように思っていたのですが、中学生になると、この宇宙が「一種の大爆発」によって存在したと教えられました。高校生になって私は聖書を知り、天地が単なる偶然ではなく、創造者である神の作によるものであることを知りました。でも当初はそれを読んでも、それが古代における一種の神話的表現ではないかと思ったものです。
ただ偶然にしては余りに見事な大自然であって、それを単なる「爆発」では到底、説明不可能という思いがあったのも事実です。
そんな頃、筑波大の遺伝子工学の権威村上和雄氏の論文を読み、「目から鱗」の感を抱きました。彼はこう書いています。
「細胞や遺伝子の中には人間業を越えた働きを見て感動した。少なくても人間の力とか業を越えた存在がなければ生き物は生まれないというのが実感である」
つまり現代の科学でさえ、大自然の作者を想定しているのです。そして聖書は力強く語ります。
「はじめに神が天と地を創造した」(創世記1章1節)
これが始まりです。この始まりを間違えては行けません。ちょうど服のボタンを掛け間違うと、途中は上手く行くようでも、最後には上手く行かないように、人生にも最初に認めなければならないことがあるように思われます。人間がはじめではなく、神がはじめなのです。この「はじめ」の主人公のすり替えが、現代の問題の原因であるように思われます。
どうぞあなたの命の創造者である神を受け入れて祝福された人生をスタートしていただきたいと願っています。
第105回2011年6月のことば
「温かい言葉と思いやりの力」 音声で聞く
6月には「花の日」という日があります。第二週です。教会では病院や老人ホームなどに花を届けに行き、少しでも慰めになればと慰問に出かけます。
ある年のこと、教会学校の子供たちも加わって病院慰問に出かけました。あるおじいさんに子供が「おじいさん早く良くなってください」と言葉をかけながら、セロファン紙に包んだ一輪の花を手渡そうとした時、近くにいた看護士さんが「ああ、そのおじいさんは何にも分からないから、その辺のテーブルにでも置いておいて」と言ったので、子供はどうしたらいいのか困ってしまいました。それでも「ともかくおじいさんに一度手渡して上げたら?」と私の言葉を聞いて子供はニッコリ微笑みながら「おじいさん、早く良くなって下さい」と言いながら花を差し出したのです。すると反応のない筈のおじいさんが、ゆっくりゆっくり手を挙げて、その花をしっかり掴んだのです。それから、おじいさんは大声を上げて泣き出したのです。驚いたのはそばにいた先ほどの看護士さんでした。何の反応もないとずっと思っておられたからでした。
人はどの様な事に心を動かされ、生きる力を見いだしていけるのでしょうか。自分のガンバリも必要でしょう。しかしガンバリもなくなりそうなとき、回りに、もし温かい言葉や思いやりがあるなら、もう一度やってみよう、もう一度生きてみようという気になることができるのではないかと思うのです。
逆に「あんたなんかダメ、もうそこまでの人生よ」という言葉や思いの中でしか生きれないなら、生きる活力は出てこないでしょう。
生きることに疲れ、もうダメだと自分でも思う生活の中で、いつでも、そしていつまでも決してダメと烙印を押さず、いや却って生きる希望を語って下さるおかたがいます。それはあなたの命の創造者である生ける愛の神です。神は聖書の中でこう語っておられます。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
(イザヤ43:4)
あなたも、命さえ与えて下さるほどの神の愛をぜひ知られて、生きる力と希望をお知り下さい。
牧師 中西正夫
第104回 2011年5月のことば
「見上げてごらん」 音声で聴く
3月11日に起こった東日本大震災以降、様々なところで歌われている歌の中で、かつて坂本九さんが歌って大ブレイクした「見上げてごらん」があります。「見上げてごらん夜の星を」…耳にされた方も多いことでしょう。
人類の歴史の中で困難に直面し、科学や人間の知恵に行き詰まったとき、人は大自然をなぜか謙虚に見上げてきました。時代とともに人の英知も陰りを見せ、その結果、打ちのめされるような科学の限界を経験したとき、人は大空を見上げ、人間を遙かに越えた存在から学び、それによって希望の世界を信じて歩んできたのです。
今から3000年前、イスラエルにダビデという人物がいました。彼はまだ主君サウル王に仕えていた時代、今で言ういじめに遭い、洞穴に逃げ込むことも度々でした。そんなとき彼は夜空を見上げてこう言うのです。
「あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは」(詩篇8:3,4)
困難の時も、事態が動かないような悶々とする日々の中であっても、誰も守ってくれる人が居ないような孤独の時にも、ダビデは夜空を見上げることができたのです。「失望したければ回りを見なさい。しかし希望を抱きたければ、上を見上げなさい」とある人が言うように、ダビデは夜空を見上げ、満天の星々を仰ぎながら、全てを益に変える全能の神を信じて明日を生きていくことができたのです。そして艱難辛苦が見事に花を咲かせ、やがて彼はイスラエルの歴史の中で最も愛すべき王として活躍することになるのです。
見えるものが崩れていくこの大震災を生きる現実の中で、あなたは何に希望を見いだされますか?あなたも人や科学の限界を感じられたなら、あなたも「上を見上げて」生きる世界をお知りになりませんか。祝福をお祈りしております。
牧師 中 西 正 夫
